今月の火星作品

主宰句

 

衣更へていろんな影を踏みゆけり

 

河骨の一茎屈すとのぐもり

 

木下闇ぬけて金気の匂ふ池

 

出汁巻に湯気の涼しく上がりをり

 

潮騒におのづから揺れ子螳螂

 

ひとすぢの橋が池分く夕立あと

 

遠く見て一ツ葉叢のさざれ波

 

まつか瓜かぶる地の顔良かりけり

 

熱き白湯飲めば湧きたつ雲の峰

 

風落ちて声落ち始む行々子

 

巻頭15句          

          山尾玉藻推薦

 

箱庭の勾玉ほどの池の照り       蘭定かず子

 

はんざきの石抱へ込む月あかり     湯谷  良

 

仙人掌咲くほつたらかしのまくれなゐ  西村 節子

 

日差し操り川狩の胴長靴        五島 節子

 

発つ鷺の脚の曳きゆく夕焼かな     坂口夫佐子

 

さびしらに錆まとひ初む蟇       山田美恵子

 

この星に地図のなき頃青嵐       藤田 素子

 

靡くなどもつてのほかと河骨黄     伊藤 由江

 

ましぐらに来る碧譚の鬼やんま     小林 成子

 

縦貫道丹波太郎の隙を突き       芦田 美幸

 

泣き相撲ひと泣きしたる顔ばかり    大内 鉄幹

 

ゑんどうの昨日の丈を聞かれても    するきいつこ

 

玉葱の片肌見せて転びけり       鍋谷 史郎

 

夜に入りしビニール袋の金魚かな    根本ひろ子

 

青鷺の一点見つめ儒宗たる       福盛 孝明

 

今月の作品鑑賞    

        山尾玉藻

 

箱庭の勾玉ほどの池の照り      蘭定かず子

 「箱庭」は比較的俳人好みの季語のようです。昔を偲んで描いてみたり、自分好みの風景をそこに創造できるからでしょう。掲句も幼い頃に慣れ親しんだ原風景の一つである池を基調に、詩人らしく「勾玉ほどの」と趣向を凝らしているようです。「照り」に幼い頃のこころの動きを見て取っても良いでしょう。

はんざきの石抱へ込む月あかり    湯谷  良

 同様に「はんざき」も俳人に好んで詠まれるようです。人間の祖先は魚類であり、それが多様に分岐した一つが人間であると言われています。それに反し途中で進化を忘れたような「はんざき」に、逆に親しみと愛らしさを覚えるのかも知れません。石に潜むその姿を「石抱へ込む」と主客転倒した捉え方が印象的で、「月あかり」の幽玄さで詩の世界へと昇華しています。

仙人掌咲くほつたらかしのまくれなゐ 西村 節子

 「仙人掌」は肉厚な茎は水分を蓄えることに長け、天敵から身を守るために葉が変形して棘となり、棘は温度変化から身を守るためと言われます。そこで人の手を殆ど必要とせず、正に「ほつたらかし」にしていてもある日突然花を咲かせます。

それも真っ赤であっただけに作者にとっては思いがけない驚きだったことでしょう。

日差し操り川狩の胴長靴       五島 節子

 「川狩」は川の魚を大量に捕獲するため、川を堰き止めて水を抜いたり、渋を流し魚を殺し、また投網を使って捕えることを意味する季語。先ほどから胴長靴の人物が眩しい日差しの中でせっせと魚を捕獲しているのでしょう。その様子を「日射し操り」と感情移入した点に独自性を感じます。

発つ鷺の脚の曳きゆく夕焼かな    坂口夫佐子

 先程から身動きもせず獲物の魚を狙っていた鷺が、獲物を捕らえて飛び立ったのでしょう。「脚の曳きゆく夕焼かな」のゆったりとした措辞より、夕焼を飛翔する鷺の脚の長さが窺い知れ、また餌を得た鷺の満たされた思いが伝わってくるようです。

さびしらに錆まとひ初む蟇      山田美恵子

 その醜い形態から忌み嫌われる蟇ですが、民家の庭に住みつくこともあって人のごく身近に生息する生き物のひとつです。体の色は大方褐色で斑点があり、掲句の場合は濃い錆色をした赤褐色の蟇だったのでしょうか。「さびしらに」に嫌われものへの憐憫の思いがこめられています。

この星に地図のなき頃青嵐      藤田 素子

 十七世紀に人の手によって作成された世界地図ではアメリカ大陸はアジアの一部とされていたそうで、無論日本は記されていなかったようです。そのような昔を思っても青葉の茂る頃のやや強い風は、若々しく力強さを人々に感じさせたことでしょう。「青嵐」の宜しさで一句を成しています。

靡くなどもつてのほかと河骨黄    伊藤 由江

 河骨の黄色の花は愛らしいですが、その茎は堅固で丈夫そうです。しかもその茎は水面から露わには伸びず、性の強い意地っ張りのようなイメージを一層抱かせます。その点を「靡くなどもつてのほかと」と表現してなんとも的確、その上で「黄」と結んで、茎とは真逆の明るく可憐な花の様子を印象付けました。

ましぐらに来る碧譚の鬼やんま    小林 成子

 「ましぐらに」の表現から、こちらへ迷いなく飛んでくる鬼やんまの眼力が想像され、読者のこころに強く刻まれます。その上で「碧譚の」と強調し、多くの昆虫の「捕食者」の王者としての風格を高めています。

縦貫道丹波太郎の隙を突き      芦田 美幸

京都では夏になると積乱雲がよく発生しますが、その発生地点に因み「丹波太郎」と呼ばれますが、豊穣な地である丹波の固有名詞から隆々たる積乱雲を思わせます。そんな積乱雲にも隙間があり、その隙を狙うように縦貫道が走っています。パワフルな大自然へ人間が知恵と技で挑んでいるような一景です。

泣き相撲ひと泣きしたる顔ばかり   大内 鉄幹

 子供を授かったことに感謝し、健康に育つように祈願する祭事が「泣き相撲」。神聖な土俵で本格的な回し姿の赤ん坊同士が向かい合わされるのですが、赤ん坊にとってこんな迷惑なことは無いでしょう。「ひと泣きしたる顔ばかり」から厄介な目に遇った後の赤ん坊の様子がとりどり想像されます。

ゑんどうの昨日の丈を聞かれても  するきいつこ

 豌豆は春に踝ほどの丈になりますが、夏の成長期は一週間で三、四十センチも伸びると聞いています。そんな豌豆の成長の速さを野暮な説明などせず、隠喩法的な修辞で「昨日の丈を聞かれても」とすかしています。このとぼけぶりがなんとも愉快です。

玉葱の片肌見せて転びけり      鍋谷 史郎

 玉葱が厨の床を転がった一瞬の寸感でしょう。肩辺りの皮がめくれた玉葱の白い肌を「片肌ぬぎ」と言い得た点がウイットに富んでいます。同時に転がる玉葱の皮の薄茶色と剥き身の白が繰り出す映像で読み手を楽しませます。

夜に入りしビニール袋の金魚かな   根本ひろ子

 祭の屋台で掬われてきた金魚でしょうか。夜になってもビニール袋の中で窮屈そうにしています。適当な鉢が無かったのでしょうが、実に気の毒な金魚です。それを眺めながら気が気ではない作者なのです。

青鷺の一点見つめ儒宗たる      福盛 孝明

じっと水辺に立っている青鷺を眺めると蓑を着て背を丸める翁のようであり、私にはもの思いに耽る芭蕉のようにも思えます。しかし作者は「儒宗」と見立てました。儒宗とは孔子の説く道を宗とする儒士のことで、青鷺が餌の魚を狙う景の「一点みつめ」も、身じろぎもせず人の道を思う学者の様子を思わせる渋い味がある一句です。