2023.11月

 

主宰句 

  

雁が音や箱階段の環の数

 

谷間のかりがね寒き水の音

 

月上り草山の風しづめたる

 

幸ひは露草が露置ける朝

 

この谿にこころあたりの鳥兜

 

体育の日の草ぐさの絮全し

 

耿々の山日疎める椿の実

 

蚯蚓鳴く夜や絵巻を蔵が飛び

 

接骨木を紅葉づり在せる厠神

 

猿酒の洞に山風つつかへり

 

巻頭15句

     山尾玉藻推薦                   

 

椋鳥やバスの吐き出す宵の顔     坂口夫佐子

 

落日のひかり返しぬ秋の蛇      湯谷  良

 

あきらめし頃に湧く知恵草の花    蘭定かず子

 

終戦日天地返しの土被り       山田美恵子

 

陶枕の牡丹にかかるおくれ髪     五島 節子

 

風呂場の黴落とす八月十五日     藤田 素子

 

修験者の呪文に醸みしましら酒    西村 節子

 

鱗雲きのふとちがふ沼の色      小林 成子

 

絵襖は二枚つづきの鬼退治      白数 康弘

 

絵本読む甚平の子を任されし     するきいつこ

 

蟬しぐれ抜けて身ぬちの蟬しぐれ   松山 直美

 

松籟の海光となる盆会かな      髙松由利子

 

空蟬の名もなき草を撓らする     高尾 豊子

 

花蕊より崩す丹波の牡丹鍋      白数 宏子

 

鬼ゆりの萼の黒点なにごとぞ     福盛 孝明

 

今月の作品鑑賞 

         山尾玉藻           

椋鳥やバスの吐き出す宵の顔   坂口夫佐子

 「椋鳥」は昼夜共に群をなして行動し、夕べには町中の樹木に戻り寝落ちるまで姦しく騒ぎ立てます。そんな樹が傍にあるバス停にバスが着き、一日の疲れを溜め込んだ顔つきの人々が次々と下りて来ます。疲れを知らぬようにさざめく椋鳥とは対照的な「宵の顔」なのです。

落日のひかり返しぬ秋の蛇    湯谷  良 

 「秋の蛇」には無闇に辺りをうろつかず、時にはとぐろを巻きつつ静かに留まって居るイメージがあり、その点でうろつく「穴惑」と違います。「落日のひかり返しぬ」に、あるがままに地上の時を過ごす蛇が想起されます。

あきらめし頃に湧く知恵草の花  蘭定かず子

 「草の花」が絮となり種を飛ばすのは種族を絶やさぬ為の尊い知恵と言えるでしょう。そんな草の花を見つめていた作者に、不意に妙案が浮かんだ様子です。そう、草の花は偶然が生んだ必然なのです。

陶枕の牡丹にかかるおくれ髪   五島 節子

「陶枕」の上部の凹みに首を据えるとひんやり冷たく、快眠が得られると聞きます。その模様は松竹梅、唐子、獅子など様々ですが、この陶枕には華やかな牡丹が描かれています。眠る女性のおくれ髪がまるで牡丹に絡むような艶なる一景が想われるビジュアルな一句です。

終戦日天地返しの土被り     山田美恵子

風呂場の黴落とす八月十五日   藤田 素子

 「終戦日」「八月十五日」の句を並べてみました。お二方共戦争体験はありませんが、両季語には微妙に相違するニュアンスがあります。

 一句目、「終戦日」としたのは、戦争体験はなくとも周囲から戦後の生活の辛苦をよく聞かされた立場で詠んでいます。畑で「天地返し」の人物は苦労をされた父でしょうか。「土被り」の翳りある切り取りが印象的です。

一方二句目、季語を「八月十五日」とし、この日を平和への希求と努力を確かめる機として詠んでいます。「風呂場の黴落とす」の小さいながら切実な行為を、戦と言う取り返しのつかぬ情況を回避する努力に重ねました。

同意の季語の使い分けに作者の自己投影が明らかです。

修験者の呪文に醸みしましら酒  西村 節子

 「ましら酒」は空想的な季語ですが、山深い雰囲気を十分醸し出します。故にそれを醸すのが山中で修業を重ねる「修験者の呪文」であるとの断定に説得力を感じるのです。

鱗雲きのふとちがふ沼の色    小林 成子

 作者は昨日も沼の辺を歩いたのですが、今日は沼の色が違っていることに気づきました。それは恐らく空の高さや辺りの澄んだ空気の所為だったのでしょう。「鱗雲」と取り合わせて清澄な世界を創造しました。

絵襖は二曲つづきの鬼退治    白数 康弘

 二曲続きに「鬼退治」が描かれている立派な「絵襖」なら、躍動感に満ちた絵襖に違いなく、また今にも襖から鬼が飛び出してきそうな臨場感もあったことでしょう。目を見張りながら襖を眺める作者が想像されます。

絵本読む甚平の子を任されし   するきいつこ

 幼な子のお守りを任された作者です。幼いとは言え一人前に「甚平」を着こなしてはいるものの、絵本に夢中になっている微笑ましい一句です。

蟬しぐれ抜けて身ぬちの蟬しぐれ 松山 直美

 「蟬しぐれ」の中から漸く抜け出た作者ですが、未だに蟬の声々が聞こえる気がするのです。先ほどの蝉しぐれが耳底に残っていた所為でしょうが、それを「身ぬちの蟬しぐれ」と述べた点に詩的センスが光ります。

松籟の海光となる盆会かな    髙松由利子

 陸風が松を鳴らしながら煌めく海へ吹き抜けてゆく目映い日和です。その景を述べて「松籟の海光となる」とは明快的確な表現でしょう。おりしも盂蘭盆会、精霊たちへ呼びかけるような風音が聞こえてきます。

空蟬の名もなき草を撓らする   高尾 豊子

 「名もなき草」とは普段は気にも留めない草の意で、そんな草にさえ懸命に縋り付く蟬殻の哀れさを表出しています。写生を忘れぬ「撓らする」が一層切なさを際立たせます。この句も「蝉の殻」ではなく「空蝉」が絶対です。

花蕊より崩す丹波の牡丹鍋    白数 宏子

 「花蕊より崩す」の表現から、大皿に華やかに飾りつけられた猪肉の様子が手に取るように想像されます。やや暗いイメージの固有名詞「丹波」が、猪肉の赤さを一層際立てています。

鬼ゆりの萼の黒点なにごとぞ   福盛 孝明

 「鬼ゆり」の花弁は鮮やかなオレンジ色で多くの黒い斑点があります。掲句のそれは今にも咲こうとしていたのでしょうが、よく見ると「萼」にもしっかり斑点があったのです。「なにごとぞ」と驚きつつも大いに不審がる作者です。