2023.10月

 

主宰句 

 

旧盆の夕べとどむる蕎麦の花

 

この秋の先がけと降る鳥の影

 

黒ぐろと身を反らしをる鵙の贄

 

国栖人の駆けしか風の夕花野

 

山家集諳ず大根蒔きながら

 

落雁のころを手馴れの旅鞄

 

種糸瓜おひおひ言うて聞かすこと

 

神巌とよき隔たりの鯊の竿

 

鳥兜年々詠んで親しまず

 

昔人のごとすくも火に佇める

 

巻頭15句

     山尾玉藻推薦          

 

長茄子のどこで曲がらうとも昼寝    湯谷  良

 

たぎつ瀬を抱きふくらむ茂かな     西村 節子

 

それぞれに屋形船の名ある団扇     蘭定かず子

 

虹へ行くバスにはあらず曲りけり    山田美恵子

 

橋涼み示し合はせしやうに来る     五島 節子

 

濁流にもまれどほしの大夏木      坂口夫佐子

 

二人して蛭太らする里の月       高尾 豊子

 

下馬石へ箒目そろふ土用あい      今澤 淑子

 

浜木綿の海上都市を集塵車       小林 成子

 

星合や若狭は水の豊かなる       上林ふらと

 

鳶色の皮吹きだまる今年竹       根本ひろ子

 

鬼灯市一間半の気つぷなる       永井 喬太

 

水飯の飯のぐづぐづなればこそ     成光  茂

 

白靴を選り徘徊へ出でし母       大内 鉄幹 

     

舟虫の「来(く)な」と蠢く神の島    窪田精一郎

 

今月の作品鑑賞 

         山尾玉藻              

長茄子のどこで曲がらうとも昼寢   湯谷  良

 この作者がこのようなすっとぼけた句を詠まれるとは嬉しい驚きです。畑では「長茄子」が曲がりつつある真昼、そんな事には関わりなく吾が身大事と「昼寝」をするという、我が儘が大見得を切ったような表現は可笑しくて凄いです。作者がよき齢を重ねておられる証のような一句、やはり俳句は折々の生きざまそのものです。

たぎつ瀬を抱きふくらむ茂かな    西村 節子

 流れの早い川が蛇行する対岸の景で、「ふくらむ」からこの「茂り」は草叢を指していることが知れるでしょう。それが水の勢いで一層盛り上がり、大きく揺れ続けているのが見えて来ます。正統な写生法による一句で、間違いなく実体を伝え、大いに臨場感を伝えています。

それぞれに屋形船の名ある団扇    蘭定かず子

 納涼船でしょうか、それとも鵜飼船でしょうか、乗客それぞれに○○船と記される「団扇」が配られたのでしょう。それだけで不思議な連帯感が生まれるもので、ぱたぱたと煽がれる団扇の動きにも、共に楽しむという嬉しさが伺い知れるようです。

虹へ行くバスにはあらず曲がりけり  山田美恵子

 遠く仰ぐ「虹」の方へと「バス」が進んでゆくのが見え、作者にはふとバスが虹を目指しているように感じられたのです。所がバスはついと曲がってしまい、作者は味気ない現実に引き戻されたようです。平凡な市井の景から得た寸感にちょっとしたロマンがあります。

橋涼み示し合はせしやうに来る    五島 節子

 「橋涼み」に来た作者は、思いがけず知り人と出会ったのです。しかし、もしやそれは意中の人ではなかったのか、そんな解釈をも楽しめるのは、季語「橋涼み」が良質で豊かな情趣を醸し出す由縁でしょう。「端居」や「縁台」では決してこの趣は醸し出せません。

濁流にもまれどほしの大夏木     坂口夫佐子

 出水後の嘱目詠で非日常の一景を伝えています。日頃は威風を誇る立派な「大夏木」が、今は「濁流」の捕らわれの身となり、激しく攻め立てられています。自然の力の脅威を目の当たりにし立ち尽くす作者です。

二人して蛭太らする里の月      高尾 豊子

 久しく勤めていた職を退かれた最近の作者は、足が地につく豊かで時には可笑しみある句を詠まれるようになりました。「二人して蛭太らする」から、ご主人と共に畑を楽しむゆったりとした時の流れが感じられ、「里の月」に我が地を愛する境地がしみじみと現れています。

下馬石へ箒目そろふ土用あい     今澤 淑子

 中七までの情景は涼やかでこころ満たされるものであり、そこに爽涼感ある季語が据えられると、一句に広がりを望むのは無理でしょう。所が作者は、一年の最も暑い季節の風「土用あい」を置き、余りにも整然とした「箒目」のゆとりの無さが、却ってじっとりとした暑さを増幅すると主張しています。「土用あい」は人の心理を巧みに摑んだ季語であり、そこに普遍性を感じます。

浜木綿の海上都市を集塵車      小林 成子

 近代的「海上都市」の浜風に所を得た「浜木綿」が、辺りの景を一層明るくしています。しかしそこに人が住む限り「集塵車」が走行し、モダンな都市に否応なしに翳りを生むのです。淡白な詠みにアイロニーがあります。

星合や若狭は水の豊かなる      上林ふらと

 「星合」と「水の豊かなる」にさほど接点はありません。しかし季語の叙情性と中七以降の豊潤な修辞が一体となり、読み手の「若狭」という地名への憧れを大きく膨らませるのは確かです。

鳶色の皮吹きだまる今年竹      根本ひろ子

 「鳶色」とは鳶の羽の色、即ち茶褐色を言います。作者はこの鳶色と「吹きだまる」を意識することで、今年竹が大量の皮を脱ぎ、それに要した時の経過を思っているのです。一見地味な句柄ですが、この句も作者のこころの動きが見て取れる正当な写生句と言えます。

鬼灯市一間半の気つぷなる      永井 喬太

 「鬼灯市」の催される浅草寺境内には約一〇〇軒の露店が犇めくとか、間口「一間半」の露店から粋な呼び込みの声がひびくのでしょう。「一間半のきつぷ」に江戸っ子ならではの潔い気性が生き生きと表出されています。

水飯の飯のぐづぐづなればこそ    成光  茂

 饐えかかった飯を水で洗い、或いは炊き立ての飯をわざわざ冷水で冷やしたものが「水飯」。ふやけた飯を指して「飯のぐづぐづ」とは言い得て妙で、飯を噛まずに喉元へ流し込む作者のしらけぶりが思われて愉快です。

白靴を選り徘徊へ出でし母      大内 鉄幹

 悲しいことですが、母上に「白靴」をわざわざ選ばれる意識は毛頭なかったでしょう。しかし、元気で聡明であった頃の母へのイメージが作者にそう思わせたのです。白靴の眩しさがこころを疼かせる切ない一句です。

舟虫の「来(く)な」と蠢く神の島   窪田精一郎

 臆病で逃げ足の速いイメージの「舟虫」ですが、思いがけない「来な」の感応に「神の島」に対する畏敬と、そこに生息する舟虫を特別視する胸の内が感じられます。その上で「蠢く」の動きの力を得て、舟虫ごときにはっと身の引き締まる思いを抱かせる一句となっています。