2020.11月

 

主宰句 

 

邯鄲の髭うるはしく畳に来

 

草ぐさを這ふ秋蝶のまことの黄

 

鴨渡りきて面白の水となる

 

艶聞の風にのりきし秋の蛇

 

とぐろてふ身ひとつなりし秋の蛇

 

仏らへましてや母へ吾亦紅

 

眉月の傾ぎあやふし紅鮭

 

かたほほに秋水覚ゆ葬の席

 

障子貼り替へし畳の鳴り易し

 

速達のにぎにぎ来たり冬支度

 

 巻頭15句

             山尾玉藻推薦                                          

 

八月の灯火黄なる漆器店        小林 成子

 

漂へるものに夕映え秋出水       蘭定かず子

 

凌霄を踏みて鴉の小競り合ひ      山田美恵子

 

水貝を噛みつつひとりなる戸籍     湯谷  良

 

秋天へ傾きのぼるキャタピラー     根本ひろ子

 

水澄むや反り返りゐる松の樹皮     松山 直美

 

新藁の匂ふ水の辺カシオペア      林  範昭

 

蜩の山飴色にふくらめる        五島 節子

 

菊の香の死に顔へ背押されたる     玉城 容子

 

盆僧のひらとをさまる金おざぶ     西畑 敦子

 

籔からし咲くや翅あるもののため    西村 節子

 

今朝秋の拘置所に入る黒鞄       藤田 素子

 

ひとり身が盆の草ぐさ提げ来たり    今澤 淑子

 

雨やみてたちまち暑き男山       坂口夫佐子

 

序列あるごと水槽の熱帯魚       江濱百合子

 

今月の作品鑑賞

                  山尾玉藻           

八月の灯火黄なる漆器店       小林 成子

八月八日辺りが立秋であり、「八月」は秋の季語とされるが、実際には炎暑が続く候である。しかしこんな曖昧な候にあっても、日本人は特有の五感で微妙に季節の変異を察知してきた。掲句の「灯火黄なる」のにもその鋭敏な感応があり、読み手にもガラス越しの店内の噎せるような漆の香が伝わってくる。

漂へるものに夕映え秋出水      蘭定かず子

 作者は水禍の生々しい実景を切り取りながら、被災者の茫然自失の胸中を痛く感じ取っている。何故なら、被害者の切迫した悲しみを「漂へるもの」と具現しているからである。そんな思いを痛々しく伝える「夕映え」である。

凌霄を踏みて鴉の小競り合ひ     山田美恵子

 オレンジ色の「凌霄」といい漆黒の「鴉」といい、暑さが一段とつのる対象である。共に夏の日差しに抗う実在的な色をしているとも言えだろう。その二物が作者にとって余り面白くない空間を生み出していたのである。

水貝を噛みつつひとりなる戸籍    湯谷  良

 「水貝」とは鮑の粋な食べ方。塩揉みした鮑を冷やした塩水に漬けただけの品で、噛み締めることによって鮑本来の味を楽しめる。作者もその味を堪能していて、ふと現在の戸籍に自分の名前しか記されていない現実を思い出した。そこには何の関りも因果もなく、偶然が呼んだ必然だと言ってよい。敢えて言うならば、噛み締めるという静かな行為が自ずと呼んだこころの動きなのである。

秋天へ傾きのぼるキャタピラー    根本ひろ子

 凸凹の斜面を登る「キャタピラー」はなかなかの騒音を立てている様子で、この切り取りは詩にほど遠い感じがする。しかし、不格好なそれが「傾きのぼる」様子に懸命さが感じられ、抜けるような碧い「秋天」を目指しているという着眼が決定的効果をあげ、見事に詩へと高めている。

水澄むや反り返りゐる松の樹皮    松山 直美

 夏の猛暑の所為だろうか、硬く分厚い「松の樹皮」が反り返って剥がれそうになっている。その様子をしっかりと映しだす傍らの水が、松の木の哀れさを強調しているように感じた作者。疲れた様子の松とは対照的な「水澄むや」が、読み手を感傷的にする。

新藁の匂ふ水の辺カシオペア     林  範昭

 辺りに新しい藁塚があるのだろうか。作者はそんな水辺に立ち、天頂近くの「カシオペア」を仰いでいる。この水辺からカシオペアへの転じ方がなかなか巧妙。と言うのも、カシオペアの存在を明らかにすることで、読み手も自ずと北斗七星や北極星へ意識が広がって行くので、詩の世界に一層の広がりが生まれる。男性らしいロマンチシズムが礎の句であるが、「新藁匂ふ」の現実をしっかり踏まえていて、気分に陥ることのなく成功している。

蜩の山飴色にふくらめる       五島 節子

 「蜩」の美しい声を耳にすると、漸く秋の気配を実感するものだ。一方でまだ残暑が厳しく、移り行く季節に対する我々の反応も微妙となる。掲句、蜩の声がとよもす山容を「飴色にふくらめる」と感じ取った点が、その微妙な心理の証となっている。飴色は有色、しかし単なる有色には無い柔らかい含みが感じられるからである。

菊の香の死に顔へ背押されたる    玉城 容子

 凄い句である。私が言う凄いとは、ぞっとするとか気味が悪いという意味ではない。人の死に係るという特別な場にあっても、無意識に常の行為をしてしまう生身の人間の悲しさと怖さをずしんと感じたからである。掲句、余計な鑑賞は必要ないだろう。それぞれが読後感を噛みしめればよい。

盆僧のひらとをさまる金おざぶ    西畑 敦子

 盆の間の僧侶はいかにも忙しそうであるが、掲句の僧はその多忙を巧みに処理しておられるようだ。それは「ひらとおさまる」の身のこなし様から十分想像できる。この僧侶、読経が終わるとひらと立ち上がり、次の檀家へひらと巡っていかれたに違いない。

籔からし咲くや翅あるもののため   西村 節子

 「籔からし」の蔓は樹木に絡みつき、往往にしてそれを枯らしてしまうほど繁殖力があり、嫌われものの雑草である。しかし花盤をなす小粒の花は結構愛らしく、また蜜が濃く豊かなので、小虫にとっては救世主なのだ。

今朝秋の拘置所に入る黒鞄      藤田 素子

場所が「拘置所」であるのでこの「黒鞄」の主は弁護士だろうと想像がつく。このいかにも重そうな鞄の中には、収容される人物にとって吉報である調査書が入っているのかも知れない。印象的な「今朝秋の」がそれを思わせる。

ひとり身が盆の草ぐさ提げ来たり   今澤 淑子

 今の世は男女共に独身主義者が増えたようだが、掲句のモデルは男性と想定した方が句に味が生まれる。この男性は日頃から細ごまとした事に気の付くタイプに違いない。「盆の種ぐさ」とあるので、盆花、盆供の品々を真面目顔で抱えて来る男性の姿に、俳句的ユーモアと同時に滋味を覚えるのは私ひとりではなかろう。

雨やみてたちまち暑き男山      坂口夫佐子

 雨後の草木の瑞々しさや涼やかさを詠んだ句はいかにも常識的で、これまで嫌というほど見てきた。しかし作者はその轍を踏む人ではない。無論石清水八幡宮を抱える荘厳さを「男山」に感じつつ、同時に生活の地として肌で詠みこむ強さが身に備わっている。だから常識に惑わされることなく、暑いものは暑いと言い切れるのである。

序列あるごと水槽の熱帯魚      江濱百合子

 酸素が送られている「水槽」には静かな水流があり、流れの中を先頭を切って泳ぐもの、その後を静かに従うように泳ぐもの、群れるもの、群れないもの等、色々いるのだろう。その実態を「序列あるごと」と捉えた視点に独自性があり、愉しい一句となっている。