2019.8月

 

主宰句 

 

天領の水皺め浮く子亀かな

 

石棺をくはしく覗き来し扇

 

はくれんに風もののふに自刃あり

 

梅雨呼びもどす鰹節削る音

 

風入れの風に蔵跳ぶ絵巻かな

 

蟇見つつ念珠一連握りをり

 

喪籠りの家を出できし捕虫網

 

端居の子通天閣を誉とし

 

夕立晴弥勒菩薩に腋のあり

 

産卵の鶏鳴ひびく安居寺

 

巻頭15句

            山尾玉藻推薦                        

 

緋牡丹の芯の塞ぎに崩れけり       山本 耀子

 

車窓走れる雨粒と葱坊主         湯谷  良

 

ひた照るや代田の底の泥一枚       坂口夫佐子

 

先々の草そよぎゐる蛇の衣        小林 成子

 

水神に藻刈の鎌の集まり来        蘭定かず子

 

孑孒の水に天領男山           大山 文子

 

緑蔭やバケツにひびく山羊の乳      上原 悦子

 

日の入りに畳の映ゆる祭鱧        今澤 淑子

 

葉桜や棚田に適ふ坂がかり        深澤  鱶

 

二上山に繊月茅花流しかな         根本ひろ子

 

薔薇園を出できし少女伏し目がち     大谷美根子

 

ニセアカシアかろしおもしと揺れゐたり  西村 節子

 

帰省子と声そつくりの九官鳥       山田美恵子

 

手を洗ふたびに十薬匂ひけり       松山 直美

 

夏わらび鉄条網が村囲ひ         西畑 敦子

 

今月の作品鑑賞

            山尾玉藻            

牡丹の芯の塞ぎに崩れけり       山本 耀子

華やかで重量感のある「牡丹」だが、時には緋色のそれは少々くどく、大きな蕊もうるさく感じることがある。恐らくこころ晴れぬ思いで眺めるとそんな感覚を抱くのだろう。「芯の塞ぎ」にそれが見て取れる。牡丹の崩れようを客観視しつつ、自己の感情を巧みに重ね合わせて佳句となった。

車窓走れる雨粒と葱坊主        湯谷  良

 雨の日の車中吟であろう。「車窓」を「雨粒」がひっきりなしに流れ、それと重なるように畑の「葱坊主」も流れ去っていく。雨の車窓風景を楽しむ作者である。

ひた照るや代田の底の泥一枚      坂口夫佐子

 既に代田となった田がしばらく放ってある景をよく目にする。掲句、そんな「代田」が陽光を跳ね返し、一面に泥光りをしているのだろう。「泥一枚」が代田となってから田植えまでの日数とその静けさを語っている。写生を手立てとして田植え前の代田らしい景をしっかりと捉えた一句である。

 

先々の草そよぎゐる蛇の衣       小林 成子

葉雫のひとつふたつと蛇の衣      山田美恵子

 一句目、「蛇の衣」が枝にぶら下がっている中、辺りの草ぐさを風がそよそよと撫でていくのだろう。この句も単なる写生に終わらず、まるで蛇の衣の存在が風を生んだかのように描いて見せた。蛇の衣という妖しさに対する自身の思いを重ねた結果であり、見たままの写生ではないこころ内なる写生に至っている。二句目、この「蛇の衣」も木々に引っかかっているものだろうが、雨後の葉から雨しずくを受けている様子である。「ひとつふたつと」から、それを時をかけて見つめる作者の眼差しが窺い知れる。雫を弾き返すこともなく、柔らかな蛇の衣は其の後どうなったのだろうか。季語を命とするのが俳句、顛末や理屈を述べないのが俳句である。

水神に藻刈の鎌の集まり来       蘭定かず子

 火星の仲間達と訪ねた滋賀県高島町の生水の郷針江を思い出す。村の真中を走る透き通った小川で藻がしなやかな揺れを見せ、夏の藻刈りを怠らぬ村人の努力が思われた。村人の水神への信仰心はあの流れのように濁りないものに違いない。

孑孒の水に天領男山          大山 文子

 「孑孒」の湧く池面に男山が映える景ながら、「天領」の一語で一句にアイロニカルな面白さが一気に生まれた。卑近なものに重厚なものがちんまり納まったようで、尊卑相対する物の在り方が愉しい。

緑蔭やバケツにひびく山羊の乳     上原 悦子

 山羊の乳房は乳牛のそれとは比較にならぬほど小さく、搾乳の時に立つ「バケツ」の音もそれなりに優しいものに違いない。「緑蔭」に相応しい翳りのない音が想像される。

日の入りに畳の映ゆる祭鱧       今澤 淑子

 幼い頃は「鱧」の味が分からず、天神祭に必ず食卓に上る鱧で気が塞いだものである。京都や大阪の祭といえば鱧料理が欠かせず、今では魚屋の店頭に鱧が並ぶとやがて来る祭に胸がおどる。掲句、中七までの写生にその喜びが滲み出ていて、大変好もしい。

葉桜や棚田に適ふ坂がかり       深澤  鱶

 「葉桜」の辺りから勾配の田舎道となり「棚田」が広がり始めた。本来なら山坂に叶った棚田と詠むべきところだが、主客転倒の詠みをしている点に独自性があり、その詠みで不思議とそれほど急勾配でない棚田を思わせる効果を生んだ。

二上山ふたかみに繊月茅花流しかな       根本ひろ子

 遠く二上山に細い月がかかり、その裾に風の茅花野が広がるという、誠に豊かでしみじみとした味わいのある景が示されている。この点で圭岳の言う「抒情と云ふことが俳句の生命」であることを立証しており、大景を十七韻にきっちりと集約した点にも大いに感じ入る。

薔薇園を出できし少女伏し目がち    大谷美根子

 一見「薔薇」と「伏し目がち」の間に因果はなさそうだが、二物を関わらすのが「少女」の一語であることは明らかである。初々しくデリケートな少女をイメージすると、気高い香を放つ薔薇の強い自己顕示が気がかりとなってくる。

ニセアカシアかろしおもしと揺れゐたり  西村 節子

 明治の初期に輸入された白い花のアカシアはもっともらしく「アカシア」と呼ばれていたそうだが、後に本来の黄色のアカシアが輸入されて以降「ニセアカシア」と称されるようになったとか。ひどい汚名を着せられ気の毒な樹である。作者もそんな思いから「かろしおもしと」と捉えたのだろう。

手を洗ふたびに十薬匂ひけり       松山 直美

 「十薬」を刈り取った後の匂いが手に残るという発想は陳腐であるが、掲句は「手を洗ふたびに」にちょっとした発見がある。この発見が読者に十薬の匂いを一層想像させる。

夏わらび鉄条網が村囲ひ         西畑 敦子

 標高の高い山地や高原の「夏わらび」は春のものより太くて柔らかい。そんな夏蕨だが、獣除けの為なのか一村を囲むように張り巡らされた「鉄条網」の傍らに萌え出ているのだ。瑞々しい夏わらびが鉄条網の味気なさを増幅する。