2019.6月
主宰句
子の抱ける巣箱は風をまだ知らず
遠波の横走りせる青葉冷
鴨足草咲かせて人に疎くゐる
箸先の湯葉のひとひら更衣
ながし南風昼の枕の窪みをり
岬鼻へ馬駆けのぼる大南風
牡丹を拉げて月の上りけり
落石をはらむ金網ほととぎす
青田中行きていよいよ屈しゐし
浮巣流れ着きたる月の竹生島
巻頭15句
山尾玉藻推薦
逃水へ腰を上げたるこぶ駱駝 山田美恵子
花冷や吹き矢咥ふる頬の張り 松井 倫子
蛇穴を出で人形を撃つコルク 湯谷 良
潮騒を首すぢに聞く蓬摘 大山 文子
夕ひばり明日へと空深めけり 松山 直美
まんさくや峠は風の巻くところ 蘭定かず子
魚は氷に上り因幡のしぐれぐせ 山本 耀子
路地奥のともせる都をどりかな 坂口夫佐子
涅槃絵を説く僧何か笑みにけり 河﨑 尚子
雪形や兄の忌に寄る老いざかり 深澤 鱶
のぼるほど紅梅となる夕日影 小林 成子
両耳よりイヤホンコード日永なる 西村 節子
春眠し軸に大星由良之助 林 範昭
蘆牙を夜どほし磨く月の波 今澤 淑子
五月来る耐火金庫の中の闇 坂倉 一光
今月の作品鑑賞
山尾玉藻
逃水へ腰を上げたるこぶ駱駝 山田美恵子
「逃水」は砂丘に発生しやすいでしょうが、内容から見て海外詠ではなく鳥取砂丘のような国内の観光地詠だと思います。客待ちの駱駝が不意に立ちあがったのを目にした作者は、駱駝にだけは遙かな逃水に懐かしい故郷か、あるいはまだ見ぬ母国が見えたと思ったのでしょうか。こころ優しい作者ならではの視線が働いた滋味ある詩の世界があります。
花冷や吹き矢咥ふる頬の張り 松井 倫子
蛇穴を出で人形を撃つコルク 湯谷 良
花見時の出店での感慨を詠んだ二句を並べました。
一句目、花見客相手の射的の出店での嘱目詠。「頬の張り」より「吹き矢」を放とうとする人物の真剣さが窺えますが、静かに花を愛でようとする作者にその景は少し可笑しくまた空しくも感じられたでしょう。「花冷や」の心象的翳りがそれを語っていて、その点に共鳴します。
二句目、同じく射的の出店の景ですが、それを意外な季語と衝撃させ、大きな主張を伝えています。考えれば、たとえ遊びであろうとも人が銃口を人形に向けている景に少なからずショックを覚えます。その怖さには、人に疎んじられつつ蛇が穴を出てきたという自然の成り行きとは比ベものにならぬ不気味さが潜んでいます。俳句には思想や哲学がないと評されがちです。しかしこう言う句に出会った時は、小難しい理論を並び立てるよりも十七文字の方がずっと説得力や影響力があると感じるのですが、如何でしょうか。
潮騒を首すぢに聞く蓬摘 大山 文子
人の「首すぢ」は敏感なものです。海を背にして「蓬摘」に屈み露わとなった作者の首筋も、辺りの肌寒さを十分にキャッチしているのです。そんな感覚を「潮騒を首すぢに聞く」とデフォルメして、波の高さや風の冷たさまでも伝えた点がなかなか巧みです。
夕ひばり明日へと空深めけり 松山 直美
「夕ひばり」が鳴きながら空高く上って行く景をそのまま詠んだ作品なら平凡の域を出ないのですが、「明日へと空深めけり」の感慨に独自性と清新性がありこころ惹かれます。雲雀の姿が見えなくなった夕空は何処までも深く、それは明日の空へと確かに繋がっているのです。きっと明日も好天に違いないという肯定的な思いが籠められていて、そこが快い作品です。
まんさくや峠は風の巻くところ 蘭定かず子
「まんさく」は春に先駆けて咲く花ですが、黄色の花弁はちりちりとした紐状であり、花らしくない花です。それだけに辺りの寒々しさを覚えさせる花ともいえるでしょう。峠に風が渦巻き、まんさくの花が一層寒げに震えているようです。
魚は氷に上り因幡のしぐれぐせ 山本 耀子
季語「魚氷に上る」はその表現通り春の兆しを実感させるものの、それはまだまだ不確かなもの、と言った微妙な季節感に本意があるでしょう。その細やかな意味合いが降っては止む「しぐれぐせ」にうまく表出されています。どことなく慕わしいひびきの「因幡」の固有名詞も過不足なく効いていると考えます。
路地奥のともせる都をどりかな 坂口夫佐子
「都おどりは、ヨーイヤサー」の黄色い声で始まる京都の華やかな風物詩「都をどり」は約一か月間続きます。その間、祇園甲部は何かと出入りがあり、小路には紅の提灯が吊られて華やかな雰囲気に包まれます。掲句、小路の奥の置屋の灯を眺めながら、明日の舞台を控える芸子や舞妓の思いをいろいろ想像する作者なのでしょう。
涅槃絵を説く僧何か笑みにけり 河﨑 尚子
「涅槃絵」の中央には入滅の釈迦牟尼が静かに横たわり、それをとり囲む多くの尊者たちが悲嘆に暮れる様子が描かれています。その下部や余白いっぱいに雑多の動物たちが様々に悲しむ様子が描かれているのですが、動物たちの悲しむさまが少々大袈裟なのがどこか微笑ましく思われます。絵図を見慣れている筈の僧であっても動物たちの様子につい頬が緩むのでしょう。
雪形や兄の忌に寄る老いざかり 深澤 鱶
早いもので作者の兄上の一周忌が巡ってきたのです。故郷長岡から眺める山々の「雪形」を眩しみつつ、寄りあった親族たちの老いぶりをしみじみと感じる作者です。しかし「老いざかり」という表現に侘しいひびきばかりではなく、どこか目出度いニュアンスも感じられるのは、そこに作者自身の老への自負と自愛の念が籠められているからでしょう。
のぼるほど紅梅となる夕日影 小林 成子
白梅紅梅が入り混じる梅の丘陵を上りきろうとした折の寸感。作者が天辺に近づくほど「紅梅」が目立ち始めたと感じたのは、辺りが夕日に映え始めて紅梅がいよいよ赤く浮き立って見えた所為でしょう。紅梅ならではの一句です。
両耳よりイヤホンコード日永なる 西村 節子
最近は街中や電車内でスマホの音楽(英会話や落語もあるらしい)をイヤホーンで聞いている人がずいぶん増えました。集中力とはいったい何なのか、ながら族はどこまで進化するのか、古い人間は大いに首を捻ります。作者も恐らく同様の疑念を抱いているのでしょう。「両耳よりイヤホンコード」のしまりのない景の切り取りに、そんな呟きが聞こえてくるようです。因みに最近はワイヤレスイヤホンが流行り始めたようで、だらりと垂れるコードがないだけまだ見栄えがします。
春眠し軸に大星由良之助 林 範昭
歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」では大石内蔵助は「大星由良之助」と名が替えられています。軸に描かれた由良之丞はいかにも歌舞伎調の男振りで、のんびりと春の炬燵で頬杖をついていたのでしょうか、廓の手摺に凭れ桜を愛でていたのでしょうか。「春眠し」が読み手にとりどり想像させるおおどかな趣の一句です。
五月来る耐火金庫の中の闇 坂倉 一光
この作者も視線の注ぎ方や叙法がユニークで、どちらかと言うと軽妙さを得手とするようですが、掲句はしんとしたこころの眼が働く手ごたえのある佳句となっています。実際に見える筈のない「耐火金庫の中の闇」が明確に見え、それも冷ややかな感覚で伝わってきます。「五月来る」の明晰な季語が大いに生きているからでしょう。