2018.7月

 

主宰句  

 

さかしらの薄紅させる梅雨菌

 

ねんごろな言葉いぶかし黴の花

 

暗がりへ蛇呼びゐしはひだる神

 

甘嚙みの馬に応へる声涼し

 

ばうばうの月に傾く瓜番屋

 

柵越しの馬に嗅がれしサングラス

 

立像の腓をつたふ草の声

 

てらてらと畳の泛ぶ水中り

 

くらがりに羽釜しづくす旱かな

 

水の辺に父の日傘の丁子色

 

巻頭15句

            山尾玉藻推薦         

なつかしむ色にむらさき遠干潟       蘭定かず子

桜蘂降る大鯉の胴震ひ           大山 文子

ひとしめの紙の帯とく松の芯        坂口夫佐子

頼みともならぬ夏鴨見てゐたり       山田美恵子

水音の贅をつくせる夜の桜         山本 耀子

霾天を海女の足裏ひと蹴りす        河﨑 尚子

連れ合ひの背丈禿びたり蜃楼        深澤  鱶

げんげん野近づくほどに勢ひけり      西村 節子

堰晴れてもうととのはぬ花筏        今澤 淑子

ヒヤシンス畑の隔つ屋敷林         湯谷  良

伏せ鉢の闇のなかより春の蠅        根本ひろ子

春の風邪こじれにこじれ月細る       西畑 敦子

コマーシャルの音量あがる春の蠅      藤田 素子

日の匂ふ布団がふたつ遍路宿        上原 悦子

椿落つる一部始終を法然院         井上 淳子

 

今月の作品鑑賞

          山尾玉藻 

なつかしむ色にむらさき遠干潟      蘭定かず子

 「干潟」は茫洋とした温かさを湛え、忘れていた何かを思い出させるような色に滲んでいるものです。作者はその表現しがたい色合いを「なつかしむ色にむらさき」と喩えました。干潟は温かさを湛える薄紫をさしていたのでしょう。しかも「色の」ではなく「色に」とし、その思いを時間をかけてゆっくりと紡ぎだしているかのように感じさせる、非常に巧みな一句と言えます。

桜蘂降る大鯉の胴震ひ         大山 文子

 「桜蘂」が降るのは余り快いものではなく、地面を覆っている景も美しいとは言えません。その臙脂色でねばっとした感触からくるイメージでしょう。作者も同様の思いで池の面を眺めていたのでしょう。だからこそ、池の鯉がふためいた場面を、鯉が身震いをして桜蕊に拒否反応を示したと捉えたのです。「胴震ひ」の「胴」に鯉の大きさやぬめり感が滲んでいます。

ひとしめの紙の帯とく松の芯      坂口夫佐子

 作者は書を嗜まれます。何十枚かの半紙をひと纏めにした細い紙の帯を解く時の心境は、これから書に励もうとする真っ新で張りつめた気持ちと言えるでしょう。取り合せた「松の芯」がその心境をいよいよものがたっています。

頼みともならぬ夏鴨見てゐたり     山田美恵子

 「夏鴨」に抱く人の思いは「残る鴨」「春の鴨」に感じる淋しさや哀れさとは違い、その存在自体余り意識せず、夏鴨に自分の思いを重ねることも少ないでしょう。そんな「夏鴨」に対して「頼みともならぬ」と思うのは人の身勝手さであり、そこがまた人間らしいところともいえるのです。

水音の贅をつくせる夜の桜       山本 耀子

 夜の桜は幽玄の趣を湛えています。掲句、桜の樹の辺りに川があるのでしょうか、快い水音が絶えることが無いのでしょう。「水音の贅をつくせる」の豊かな表現は、桜ばかりでなく水音にもこころ惹かれる作者の口から自ずとついて出た表現でしょう。

霾天を海女の足裏ひと蹴りす      河﨑 尚子

 海女が潜る瞬間の足裏を詠んだ作品は多々あり、足裏が白いとか眩しいという発想にも既に手垢がついています。しかし「霾天」でのそれを詠んだ作品は初出です。黄砂に濁った空はいかにも重そうで、その空を嫌うかのような「ひと蹴りす」の措辞に、海女の潔い力強さが感じられ好感を覚えました。

連れ合ひの背丈禿びたり蜃楼      深澤  鱶

 残念ながら人は歳を重ねていく内に背丈が縮んできます。この現実は本人よりも身近な者がよりよく気付くものでしょう。作者はそんな現実を陰に籠ることなく捉え、「連れ合ひ」「禿びる」の軽妙な表現でおかしみの世界へと繋げています。

げんげん野近づくほどに勢ひけり    西村 節子

 「げんげん」はそれ自体愛らしい花ながら、それが一面に咲いている景からは美しさと同時に旺盛な生命力を強く感じるものです。「近づくほどに勢ひけり」とはその実感でしょう。

堰晴れてもうととのはぬ花筏      今澤 淑子

 堰では水が渦巻いており、それまでゆったりと流れて来た「花筏」もちりぢりとなってしまいます、などと因果を述べたところで全く詩情はありません。しかし掲句、花筏がもはや組み直されることがない理由を、「堰晴れて」であると間接的表現に託してみせました。読み手に否応なく堰の水の勢いときらめきを感じさせる巧みな措辞と言えます。

ヒヤシンス畑の隔つ屋敷林       湯谷  良

 点々と「屋敷林」が設けられている地でしょう。その中で、「ヒヤシンス畑」を挟んで黒々と聳え合う二つの屋敷林があります。その景をヒヤシンス畑が二つの屋敷林を隔てているとシフトチェンジし、より鮮やかな光景として印象付けています。

伏せ鉢の闇のなかより春の蠅      根本ひろ子

コマーシャルの音量あがる春の蠅    藤田 素子

 一句目、「春の蠅」はどこからともなく現れるものですが、掲句の場合も思いがけず伏せてあった植木鉢から這い出て来たのです。鉢の闇から漸く逃れ出たような、まだまだ覇気のない動きの蠅です。

二句目、テレビの画面がコマーシャルに変わるやいなや音量が驚くほど上がるものです。蠅は足がセンサーとなり振動を感じると聞きますが、テレビ近くにいる蠅にとっても突然の騒音は迷惑千万。まだ弱弱しい「春の蠅」なら尚更でしょう。

春の風邪こじれにこじれ月細る     西畑 敦子

 「春の風邪」ごときと侮っているとなかなか長引くものですが、それも「こじれにこじれ」て月が眉ほどに細ってもまだ完治しないのでしょう。「月細る」に自分を重ね、やや気弱となられた向きも窺えます。

日の匂ふ布団がふたつ遍路宿      上原 悦子

 二人連れで霊場を遍路されているでしょう。宿に着くと、部屋に布団が畳まれていたのか、寝床が敷かれていたのか、布団から日向の匂いがしたのです。宿の心遣いで昼の内に蒲団が干されていたのでしょう。疲れた二人には何よりのお接待だったことでしょう。

椿落つる一部始終を法然院       井上 淳子

京都鹿ケ谷の法然院は、哲学の道からそれた場所にある静寂の寺院であり、紅葉や椿がとても美しいです。普通、椿の落ちる瞬間を目撃する幸運はなかなか巡ってこないものですが、なるほど法然院の静けさの中ならそれも可能だったのでしょう。しかも「一部始終」なですから、作者はこれ以上ない至福の時を過ごしたことになります。固有名詞「法然院」が活きています。