2018.6月

 

主宰句 

  

黄砂降るサーカステントの多角形

 

逃水の果より来し伝道師

 

みづうみに掌を置き八十八夜かな

 

ひと汚れせし白靴の履きごこち

 

八百万の神を呼ばはば青嵐

 

夫とはぐれ茅花流しに立ちゐたり

 

日雷蛇口は水を押しとどめ

 

この噂青葉木菟には聞かすまじ

 

蛇の衣月のいよいよ痩せゐたる

 

噴水に黒着こなして立てる人

 

 

巻頭15句

            山尾玉藻推薦                    

初蝶に別の風ある橋の下          大山 文子

日輪のとりのこ色を鴨引けり        坂口夫佐子

起きぬけの眉のまづしく百千鳥       蘭定かず子

ゆるる草うなづける草抱卵期        山田美恵子

咲き終へし梅林にあるけもの臭       山本 耀子

 

海市行きバスに乗りきしチェロケース    西村節子

山側の吊革握る桜かな           河﨑 尚子

涅槃図の裾に(くぐ)めば山の音         深澤  鱶

なつかしきことのさびしき風信子      藤原 冬人

羽ばたくも潜るも一羽風光る        小林 成子

水の辺に烏骨鶏ゐる仏生会         井上 淳子

海市見てきしと口開く帆立かな       越智 伸郎

お湯注ぎ三分待てる花疲れ         上原 悦子

夕暮れの路地をひきずるゴム風船      湯谷  良

日和冷えせる尼さまの雛屏風        今澤 淑子

 

今月の作品鑑賞

          山尾玉藻        

初蝶に別の風ある橋の下        大山 文子

こころ待ちにしていた「初蝶」に偶然出会い、じっとその行方を見守っていたのですが、蝶が橋の下へ入った途端にその羽づかいが変わったのを感じた作者です。恐らく橋の下では風が穏やかに流れていたのでしょう。少し安堵する作者が想像されます。対象にこころを添わせると自ずと視線が繊細となるものです。

日輪のとりのこ色を鴨引ける      坂口夫佐子

 「とりのこ色」とは鶏卵の殻のような淡い黄色のこと。暈がかかると太陽はとりのこ色となり、天気は崩れる傾向にあります。そんな危うい天候の中、それでも北へ帰って行く鴨たちを思い、旅の無事を願う作者です。

起きぬけの眉のまづしく百千鳥     蘭定かず子

 齢を重ねてゆく内に徐々に眉毛も薄くなってくるから、などと野暮な解釈は無しとしたいですが、起きぬけのぼんやりとした顔の眉はやはり貧粗に違いありません。朝より活気づく春禽たちの声が、鏡に映る眉の貧しさを囃し立てるようです。

ゆるる草うなづける草抱卵期      山田美恵子

 野の草は丈や形により、風に揺れる様子もさまざまですので、「ゆるる」「うなづける」の対句的表現はなかなか的を射ています。まるで草たちは遥か頭上で鳥達が抱卵の時期に入ったことを心得ているかのようで、自然界を讃える春の一句となっています。

咲き終へし梅林にせしけもの臭     山本 耀子

 芳香を漂わせた梅林は花を終え、今は侘しさだけを漂わせています。梅の花の頃はまだ冬眠から覚めきらずにいた獣たちも、漸く活動し始める頃でしょう。「けもの臭」に実感があるでしょう。「梅園」と異なり人の手が余り入らぬ「梅林」らしい感応です。

海市行きバスに乗りきしチェロケース  西村 節子

「海市」は幻想的世界を詠む手立てとして格好の季語です。掲句は虚構であろうとなかろうと、現実と非現実の接点を巧みに捉えてます。港行きのバスに乗りこんできた「チェロ」を抱えた人物は一体どこへ行くのでしょうか。遥か海上に出現した世界へ行くのでしょうか。想像が限りなく膨らみます。

山側の吊革握る桜かな         河﨑 尚子

 平明な句意ですが、作者のこころ踊りが素直に伝わり好感を覚える一句です。美しい桜を眺めながら、列車の「山側」に立った幸運を喜び、「ラッキー」と呟いている作者。読み手までも嬉しくなる一句です。

涅槃図の裾に(くぐ)めば山の音       深澤  鱶

「涅槃図」の裾まで膝を進めたその折、予期せぬ寺院の四方の「山の音」を聞いた、というのです。山音とは風音か、実際には聞こえない音だったのでしょうか。いずれにしろ涅槃図を詳細に味わおうとする澄んだ境地の表れだと思います。

なつかしきことのさびしき風信子    藤原 冬人

 私事ですが、幼い頃に初めて見た「風信子」から、冷ややかな美しさというものがあることを知ったことを思い出します。本来なら中七までの全くの主観は否定されるところでしょうが、私のこころの琴線にびびっと触れました。何故なら、早春人の手により水栽培で開く「風信子」は、懐かしさと淋しさを背中合わせに兼ねそなえる花、ここに「風信子」の本意があるからです。

羽ばたくも潜るも一羽風光る      小林 成子

 春の鴨は番でいるか一羽きりで水に浮いている場合が多く、その景はやたらと水の広さを覚えさせます。掲句は一羽ずつが互いに隔たり合っている景でしょう。中七までの淋し気な景を「風光る」と結んだところに作者の愛を感じました。

水の辺に烏骨鶏ゐる仏生会       井上 淳子

 中七までの景と「仏生会」に関わりがないように思えますが、「水の辺」「烏骨鶏」「仏生会」が相互に触発し合って詩を醸し出し、どこか懐かしい穏やかで温かな世界を創造しています。中でも普通の鶏ではなくふわふわの「烏骨鶏」が趣を深めています。

 

海市見てきしと口開く帆立かな     越智 伸郎

 掲句も「海市」の一句。「海市」は大蛤が吐く息で起こる現象という言い伝えがありますが、掲句はその蛤ではなくごく普通の「帆立」に海市を語らせている所がユニークです。「口開く」から、まるで帆立が海市を目撃したことを驚いているかのようで、「海市」の不思議さを可笑し味をもって醸し出しています。

お湯注ぎ三分待てる花疲れ       上原 悦子

 即席ラーメンは湯を注いで三分ほど待ちます。空腹ならわずか三分が長く感じられるのでしょうが、「花疲れ」の身なら今日眺めた桜をぼんやり思い出す模糊とした三分間であったかも知れません。「花疲れ」に類想が無いでしょう。

夕暮れの路地をひきずるゴム風船    湯谷  良

 はち切れんばかりに弾んでいた「風船」も、夕方にはしぼんでしまったのでしょう。それでも風船の糸をしっかり握る子の手が見えて、なかなか微笑ましい市井の一景を詠んでいます。

日和冷えせる尼さまの雛屏風      今澤 淑子

作者は尼寺の雛人形よりもその後ろの屏風に注目しているのです。恐らく外の日和に比して雛を飾る床の間は薄暗く、本来煌びやかな筈の金屏風も冷たい光を湛えていたのでしょう。それを「日和冷え」と捉えた点に繊細な感受性が窺えます。