2017.12月

 

主宰句 

       

甘鯛の憂ひの詰まる額かな

 

裏山へ鳥のつつこむ玉子酒

 

観音に侍し赤蕪を襖干し

 

鍋蓋で鍋音伏せぬ日短か

 

きららかに雨過りゆく熊の罠

 

枯蓮の思ひ屈せし形ばかり

 

岩が根のへ鳴ける冬の虫

 

沢庵の茶の花としてひた咲ける

 

川の面の小雨に濡るるぬくめ鮓

 

父の忌の霜置く声を聞けとこそ

 

巻頭15句

            山尾玉藻推薦       

母の荷の甘薯をちよつと叱りけり     山田美恵子

新走り枡を溢れてこぼれざる       林 範 昭

いちにちをいささか励み菊膾       今澤 淑子

豊年の水を見おろす百度石        坂口夫佐子

秋高し人よぢのぼるトラクター      河﨑 尚子

潮焼けの畳八枚後の雛          深澤  鱶

蚯蚓鳴く辺りを掃いて来る母       山本 燿子

地に濡れし羽の飛び立ち露けしや     湯谷  良

海老蔵でござりますると曼殊沙華     大倉 祥男

月上げてサファリパークの生臭し     大東由美子

秋の灯をともし我が家の匂ひかな     藤田 素子

理髪屋の鏡の奥の秋祭          坂倉 一光

藪柑子味方のひとりあればよし      白数 康弘

川底の石を過りぬ銀やんま        松山 直美

夫抱へ声の出でたる秋暑かな       垣岡 暎子

 

今月の作品鑑賞

          山尾玉藻 

 

母の荷の甘薯をちよつと叱りけり   山田美恵子

 母上が「甘薯」を背負い作者に届けに来られた様子です。その荷が余りにも重たく、作者は「甘薯」に「ちょっと重たすぎるのと違う」とでも文句を言ったのでしょう。母上を思いやる優しい心情が「ちよつと叱りけり」によく表出されています。

新走り枡を溢れてこぼれざる     林 範 昭

 枡一杯に「新走り」が注がれるのを目にして、作者は「あっ、溢れる」と少し固唾を呑んだのです。しかし枡に盛り上がった「新走り」は一滴たりとも零れなかったのです。この「溢れてこぼれざる」の理に合わぬような表現はなかなか言えるものではありません。臨場感ある景を浮き彫りにする見事な「新走り」の一句一章です。「新走り」の香と枡の杉の香がして、あ~、もうたまりません。

いちにちをいささか励み菊膾     今澤 淑子

 「いちにちをいささか励み」と少々遠慮気味な表現ですが、本人は自分の働きっぷりを至って自負している様子です。それは夕餉に用意した「菊膾」からよく窺い知れます。「菊膾」とはなかなか気の利いた味わい深い逸品であるからです。

豊年の水を見おろす百度石      坂口夫佐子

 奈良公園近辺の吟行で特選に頂いた一句です。作者は社寺の境内の「百度石」の辺に佇み、この石を裸足で巡る人々の胸中を思っていたのですが、辺りの景に惑わされることなく「豊年」という季語を斡旋した点に感服しました。たとえ吟行句であっても一句独立型の普遍性を詠まねばならないでしょう。下五に「百度石」という絶対的なものを据えた点も成功の大きな要因です。

秋高し人よぢのぼるトラクター    河﨑 尚子

 北海道詠の一句です。作業を始める人影が「トラクター」に乗り込む景ですが、「よぢのぼる」の措辞で「トラクター」に比して人影の小ささが想像され、その想像は天地の広大さや豊饒さへと限りなく広がってゆきます。「秋高し」が秀逸です。

潮焼けの畳八枚後の雛        深澤  鱶

 たつの市の小さな漁港室津詠でしょう。昔は海上と陸上の交通の要衝として、また遊女町としても栄え、今も「後の雛」祭を行っています。雛の間の「潮焼けの畳八枚」がどことなく侘しく、「後の雛」祭が唯一の楽しみであったであろう遊女たちの哀れさがしみじみと偲ばれます。

蕎麦茹づる湯の白濁や秋彼岸      蘭定かず子

 「暑さ寒さも彼岸まで」と言われますが、盛夏とは違い蕎麦を茹でる時にも少しゆとりを覚えている作者でしょう。「白濁」する茹で汁も甘やかな香を湛えていたことでしょう。

蚯蚓鳴く辺りを掃いて来る母     山本 燿子

 句の中に道理や理屈は微塵も見られません。しかし、「蚯蚓鳴く」という架空の季語はなかなか空想的で、母上は辺りが暮れ始めたにも関わらず一体どこを掃いて来られたのか、読み手の興味をなかなかにそそります。なんのかんのと言葉で飾らず、放り出したような無頼さが魅力の一句でしょう。

地に濡れし羽の飛び立ち露けしや   湯谷  良

 雨後でしょうか、小雨が降っているのでしょうか。いずれにしても鳩か鴉が濡れた羽で地を飛び発ったのでしょう。作者の「露けしや」の呟きから、その羽音が常とは微妙に違ったことが想像されるでしょう。

海老蔵でござりますると曼殊沙華   大倉 祥男

 掲句も道理や因果ではない全くの感覚によって成されてますが、この点で「曼殊沙華」に類想、類句は見られなでしょう。十一代目「市川海老蔵」には華やかさとあくの強さが共存しているように感じますが、それは「曼殊沙華」の漂わすイメージと寸分たがわぬものです。快い口唱性も良いですね。

月上げてサファリパークの生臭し   大東由美子

秋の灯をともし我が家の匂ひかな   藤田 素子

一句目、俳人にとって大いなるテーマとされる「月」がまさかの「サファリパーク」と取り合わされ、思いがけぬ詩の世界を生んでいます。しかし、「生臭し」は実際の匂いではなく、青白く冷ややかな月光の下でうごめく野生の獣たちの実相より得た感覚的な思いです。二句目、作者は「我が家の匂ひ」と感慨深げですが、具体的にどのような匂いであるかを示しているわけではありません。日の暮が徐々に早くなる季節、外出先から戻り薄暗くなっていた部屋に灯を点した瞬間に覚える安らぎ感を「我が家の匂ひ」と表現したのです。二句共に率直な感慨を嗅覚で捉えて成功しています。

理髪屋の鏡の奥の秋祭        坂倉 一光

 作者が「理髪屋」の大きな鏡の前に座っている時、店の前を過ぎる山車とそれに続く祭姿の人々が鏡に映ったのでしょう。急に浮き足立った作者の様子が思われますね。「鏡の奥」の奥がほどよく効いて、「理髪屋」の店内と表の通りの隔たりも実感されます。

藪柑子味方のひとりあればよし    白数 康弘

 観賞用に栽培されることの多い「千両」「万両」に比べ、山地に自生する「藪柑子」の赤い実は地味なものです。しかし、しっかりと主張する色でもあり、この色は作者の生き様を象徴しているとも捉えられます。また中七下五の表現は一見潔いようでありますが、どこか人間的な弱さも垣間見え、なかなか味のある一句となっています。無論、「ひとり」は奥さまの宏子さんでしょう。

川底の石を過りぬ銀やんま      松山 直美

 「川底の石」が透けて見え、その上を「銀やんま」が過った一瞬を捉えた句ですが、それを一体化させて水の清澄さを一層印象付けているでしょう。この景にゆったりと飛ぶ大きな「銀やんま」は絶対条件、他の蜻蛉では一句として成立しないでしょう。

 夫抱へ声の出でたる秋暑かな     垣岡 暎子

 作者は長年病臥のご主人の介護をされておられますが、この時はご主人を抱えようとされて思わず声が漏れた様子です。自分で自分の声に気付き、一層「秋暑」を覚えられたのでしょう。つくづくとご苦労が偲ばれる一句です。