2016.4月

 

 

主宰句 

 

厄介な人花桃をさげ来たる

 

雛の家を舟座布団に見て過ぎし

 

夕冷えの庭下駄で出し桃の花

 

涅槃図にもとより冷ゆる膝頭

 

うつし世の靴に広ごるいぬふぐり

 

鳥雲に入るを仰げる松の反り

 

鴨帰り鳰の潜きのひそかなる

 

三山の恋の譚に蛇出づる

 

まつ青な杉山の裾種漬くる

 

日輪の老い始めたる大干潟

 

巻頭15句

                             山尾玉藻推薦               

 

川べりは日差しはぐくむ仏の座       蘭定かず子

 

大寒や竹林に煙ゆきわたり          大山文子

 

飾臼あふみに雪の水漬きたる         深澤 鱶

 

一月の樹の根を抱く樹の根かな        藤田素子

     

たちまちに畳まれし木偶風花す        小林成子

 

風花の木材市場人湧ける           高尾豊子

 

手袋をはめてまぶしき街に入る        涼野海音

 

ものの芽に風ほぐれんとしてゐたり     白数康弘

 

冬桜近づくほどにうちふるへ       山田美恵子

 

福寿草日差しきのふにまさりけり      田中文治

 

ひるのこをゆつくり立たせ傀儡師      山本燿子

 

きさらぎの青菜畑を体操着        坂口夫佐子

 

車椅子を囲む礼者の増えて来し       西畑敦子

 

掻くたびに空仰ぎけりどんど守       井上淳子

 

女正月しばらくは母寝かせ        根本ひろ子

 

今月の作品鑑賞

         山尾玉藻

 

川べりは日差しはぐくむ仏の座    蘭定かず子

早春の光を浴びる川岸で仏の座が点々と広がっている何でもない景を、このような表現にのせるとぐんとゆかしい趣が生じるから不思議です。「川べり」というひびきも大らか、地味ながら柔らかな産毛をもつ「仏の座」が主眼となっている点も好もしいです。

大寒や竹林に煙ゆきわたり       大山文子

作者の住む京の外れ八幡は筍の名産地であり、何処の竹林も手入れが行き届いており大変美しい所です。折しも「大寒」、きんと緊まった竹林の琅玕いろに、近くで何かを燃している白い煙がゆっくりと柔らかに染み込んでいくのでしょう。奥行きある美しい一景です。

飾臼あふみに雪の水漬きたる      深澤 鱶

この場合の「あふみ」は琵琶湖を指します。新年、近江に降った雪が解けて琵琶湖に流れ込んだ情景を指して、「雪の水漬きたる」とはなかなか巧みな言い回しす。地方色が濃い「飾臼」も一句に重厚さを生んでいます。

一月の樹の根を抱く樹の根かな     藤田素子

鞍馬の木の根道のように、地に露わとなった大木の根同士が互いに絡み合っているのでしょう。きっぱりとした写生眼で、年の初めの月「一月」の清々しさを言い得ています。

たちまちに畳まれし木偶風花す     小林成子

風花の木材市場人湧ける        高尾豊子

一句目、素早く畳まれた木偶はどんな木偶だったのでしょう。道行の男女の木偶か、鬼の木偶か、それとも狂女の木偶か。窓外に舞う美しい「風花」がとりとめもなく読み手の想像力を駆り立てます。

二句目、「風花」が激しく舞い始めると同時に、木材市場が多くの人出となって来たのです。それを「人湧ける」と捉えた点に作者の感性の良さを思います。「風花」により木の香が一層顕ってくるようで、佳き香、佳き景。

一句目は「風花」の美しさが、二句目はその華やかさが一句に奥深さと広がりをもたらせました。

手袋をはめてまぶしき街に入る     涼野海音

「まぶしき街」には繁華な街と言うよりは作者の憧れの街という意味が籠められているように思います。「手袋をはめて」の行為に、少し気分を整えているのが窺えるからです。人の何気ないちょっとした行為にも全て意味があります。

ものの芽に風ほぐれんとしてゐたり   白数康弘

木々や草々の芽がほどけ始める候は春の兆しが一進一退し、風の冷たい日もあれば穏やかな日もあります。春の気配を覚える日には大方は草木の芽吹きに注目するものですが、作者は芽吹きを見ながらも風を見ているのです。その点にこの句の独自性があります。

冬桜近づくほどにうちふるへ     山田美恵子

色の薄い冬桜は散り急ぐこともなく長い間咲き続け、春の桜のように樹下に立って深い感慨を覚える花でもありません。作者も冬桜は元気な花ぐらいに思っていたのでしょうが、今日近づいてみてひどくこころ動かされた様子です。ぼんやりと咲いている花ではなく、凍てつく風の中で懸命に咲いている花だったのです。中七下五の小さな発見が徐々に大きな感動にと転じて行きます。

福寿草日差しきのふにまさりけり    田中文治

中七、下五を読んで早春の花ならなんでも一句に成るなど、ゆめゆめ思わないでください。二句一章の場合の発想は本来季語から生まれ出たものでなくてはならず、その点が二句一章が成功すると季語が動かないと言われる所以です。掲句、間違いなく「福寿草」から発想された一句。「福寿草」はちっぽけながら日射しを敏感に感じとる花なのです。

ひるのこをゆつくり立たせ傀儡師    山本燿子

蛭の子は日本神話で伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)の神の間に生まれた子で、足が立たず流し棄てられたと伝わっています。人形師がその人形をゆっくりと起たせたところに、日本人としての崇高な思いが伝わって来るでしょう。それに注目した作者の思いも然り。

きさらぎの青菜畑を体操着      坂口夫佐子

青菜畑を体操着の子が過って行く、それだけの景。しかしながら眩しい緑の「青菜畑」と真っ白な「体操着」の融合で印象的な世界が生まれました。偶然の二物が必然となった瞬間です。「発句はただ(こがね)を打ちのべたる様に作すべし 芭蕉」

車椅子を囲む礼者の増えて来し      西畑敦子

病院か老人ケアハウスでの嘱目かと思います。新年となっても帰宅できない車椅子の人物を、職員が、それとも家族がとり囲み、その数が増えて来たという、温かな光景です。互いに明るく御慶を交し合う声が聞こえ、車椅子の人物の笑顔が想像されます。

掻くたびに空仰ぎけりどんど守     井上淳子

どんど守が金属の杷で飛び散る火屑を掻く度に空を仰ぐのは、なにも天候を案じているのではありません。高くがる炎を常に伺いつつ杷で火勢を調節しているのです。どんど守らしい仕草を的確に捉えました。

女正月しばらくは母寝かせ      根本ひろ子

母上を真ん中に姉妹が揃った女正月。久しぶりの賑やかさにご機嫌の母上だったのでしょうが、高齢を案じた作者に少し横になることを勧められたのでしょう。余りこころが進まない様子で床につかれた母上が想像されて大変微笑ましいですね。

天水の大瓶覗く春隣          林 範昭

この句も夫佐子作品と同様、「天水の大甕」を覗いてみた行為と「春隣」には必然性はありません。しかしこうして取り合わせると二つの偶然が大きな必然性を帯びてきて説得力が生まれるのです。