第五十三回関西俳句大会 講演録

   岡本圭岳と関西俳壇

                   山尾 玉藻

 

 ただ今ご紹介頂きました山尾玉藻でございます。

実は一昨年俳人協会賞を頂きました時、授賞式での挨拶では緊張のあまり、一体何をお話したのかはっきり覚えておりません。でも後から茨木和生先生に「なんでお父さんの岡本圭岳のことをひと言も言わなかったんや」と言われました。その時、しまった、えらい親不孝した、と悔やみました。で、その後に茨木先生から今回の講演のお話しがありました時、今度こそ父岡本圭岳のことをお話し、少しでも皆さん方にこんな生き方をした俳人も居たことを知って頂き、何かを感じて頂けたなら幸いだなと考えた次第です。

俳句を始めた頃

 お手元のレジメをご覧ください。私は父の六十一歳の時の子でありまして、母は三十七歳でした。ですから父と母は二回り年の差がありました。父が存命して居りますと今、百三十五歳になります。私は昭和十九年生まれですから自ずと私の歳も知れるのですが、それはさておきまして、父の生まれた年から説明させて頂きます。

 父は明治十七年四月一日、大阪東区今橋に生まれました。今は東区ではなく、中央区になっています。いわゆる北船場の生まれでございます。岡本家は、鴻池家の一番番頭格の古い家柄でありました。船場でもなかなか古い考え方、習慣を通す家柄であったのではないかと思います。父は、まず愛珠幼稚園へ入ります。愛珠幼稚園を皆様ご存知でしょうか。適塾の裏側あたりにあります、今は重要文化財になっていて、勅使門のような立派な門もある幼稚園です。そこから愛日小学校、東区高等小学校へと進みます。これはいわゆる船場のぼんぼんが進学するコースだったらしいです。普通にそういうコースを辿りまして、明治二十九年十二歳で、鴻池家経営の第十三銀行に勤務致します。勤務と言ってもたかだか十二歳ですからお茶汲み程度だったと思うのですが。

 十四歳になり俳句を覚え始めます。愛日小学校の一歳年上に芦田秋窓と言う方が居られ、この方も大阪で活躍された俳人ですが、この秋窓さんから誘われ初めて俳句を知ります。

この年、青木月斗さんを主とする若い俳人のグループ「三日月会」が結成されます。月斗さんは後々「同人」という結社の主宰をなさいます。この「三日月会」を立ち上げる一年前に、京都では「満月会」というの会が結成されています。当時、正岡子規派が関西でどんどんと力を発揮するようになり、その子規派が一つのグループとして結成されたのが「満月会」です。月斗さんたちは、これからどんどん大きくなっていくと言う思いを込めて、満月ではなく「三日月会」と命名されたのでしょう。圭岳も誘われて、「三日月会」の立ち上げに参加しております。その時に初めて圭岳の俳句が記録に残っています。

ところで、私ども岡本の家は戦災で二度焼失しておりまして、家財もろとも俳句の資料と言うものもは全て残っていません。当時の俳壇事情や作品は全て、新聞や他の雑誌や会報から調べ集めたものです。当時のことは父からぼつぼつ話は聞いては居りましたが、実際どういう作品を作ったとか、どういう環境であったかと言うのは、後々「ホトトギス」「同人」その他の雑誌に記載されていたものを調べ上げて判ったものばかりです。

まずは十五歳から十七歳までの作品が初めて圭岳作品として残っております。「三日月会」に参加しながら、「ホトトギス」に投句しております。その時の「ホトトギス」の選者は正岡子規、虚子、碧梧桐、そして松瀬清々、と言った方々です。松瀬清々さんは皆さんよく御存知の茨木和生先生の師である右城墓石さんの師で、この後関西俳壇の重鎮となられる方です。それらの方々の選を受けて度々入選するようになりました。その時の句を少し紹介します。

白魚は隅田に老いて霞かな

したたかに生姜舌さす新酒かな

こんな句を高々十五、六歳で作っております。白魚の句ですが、圭岳はそれまで東京へは行ったことがありません。それどころか大阪から出たことのない人間です。それがホトトギスへ投句するに当って「隅田」などと大嘘を詠んでいるわけです。二句目の句にしたって、よっぽどのお酒好きでないとできない句なのですが、そんなのが入選しております。なかなかの早熟ぶりだと思います。よく俳人は嘘をつくと言われますけれども、当時からこういう大嘘をついていたのですね。勿論いわゆる単なる嘘ではなくて、どうすれば詩的に昇華できるかという観点からの嘘でして、当時からこういう作り方もOKだったのでしょう。

 それから「ふた葉」というのがあります。これは関西で初めて出版された文芸総合誌であります。俳句、短歌、漢詩、それに当時の現代詩など、一般から投稿されたものを掲載しています。そこにも度々投句したり、依頼されれば作品を出しております。

 この「ふた葉」では後々、余りにも俳句が隆盛となりましたので、俳句の欄だけが膨らみ過ぎてきます。それで俳句だけが独立して一誌を持ったのが「車百合」です。「車百合」は最初しばらく青木月斗さんが編集をされ、その後、松瀬清々さんが編集されるという経緯をたどっています。その当時、作品を依頼されて「やぶ入り」と言う題で圭岳の作品が十句掲載されています。その中の句です。

  やぶ入りの叱る如くに帰しけり

 これはやぶ入りで久しぶりに我が子を迎えた親の切ない気持ちをかんがみて詠んだものだと思われます。ここには記載していませんけれど他に、

  やぶ入りの羽織をきるや大人ぶり

  やぶ入りのつくり病や二三日

と言うのもあります。先ほど申し上げましたように、圭岳は鴻池家の筆頭番頭格の家に生まれていますから、やぶ入りなどという事はまるっきり経験しない逆の立場の人間です。田舎育ちではないギャップを自覚しながら、大阪の町家の気風と言うものをバックにして、かなり想像逞しく作っている句ばかりです。

このやぶ入りなどの句を見ますとよくわかることですが、若い頃からいわゆる自然詠ではなく、人事句が得意だったのが窺い知れます。次の句を見て下さい。

伽羅くさき揚屋布団や宵の春

なんていうのは少年が作る句とは思えません。それをいかにも揚屋さんで一晩過ごしたかのような作り方をしております。本当に経験したのかどうか実際のところは不明ですが、なんとまあ小生意気に色っぽい句を作ったものです。私が想像しますに後に圭岳は江戸時代に島原に居を構えたは俳人炭大祇をすごく私淑するようになります。憧れるようになります。ですからこの時分から(すい)な詠みぶりに憧れていたのが作品に滲み出ているなと言う気が致します。

先ほど「ホトトギス」や「ふた葉」や「車百合」などに熱心に投句していたと申し上げましたが、一番熱心に投句しましたのが、子規選の俳句欄のありました新聞「日本」でした。ここで正岡子規の選に入るという事が、当時、東京から遠く離れた関西の若い俳人にとっては憧れで、入選すれば大変な喜びようだったと思われます。圭岳も熱心に投句しまして、たびたび入選を果たしております。その中の句を二句だけ挙げております。

  日中をすこし雨降る青田かな

これは真面目に写生をしておりますし、

  さめ易き新酒の酔や船の月

これなどは自分を重ねながら抒情的な句に仕上げております。

  東京へ

そういう経験を何年か重ねていきますうちに、もう是が非でも正岡子規に逢いたい、直接指導を受けたい、という気持ちが高まって参りました。それで鴻池銀行に、自分の方から東京へ転勤させてくれと申し出ます。まだ銀行員としてはぺいぺいの身でありながら大胆にも申し出て、なんとその夢が叶い、明治三十三年には東京へ転勤になります。まだ十六歳です。しかも右も左もわからない東京へよく行けたものだなと思うのですが、ただもう正岡子規に逢いたいと言う熱い思いだけで、夢中で東京へ行ったのでしょうね。

明治三十三年の十月、遂に根岸の子規庵での句会に参加、念願の夢が叶いました。根岸の子規庵をご存知の方も多いと思いますが、二間続きの和室が庭に面していまして、隣に小さな台所がございます。その二間続きの部屋を庭から見て、右側が子規の病室になっています。糸瓜棚があり、今も尋ねますとその当時の風情を残しておりますね。左側の座敷がいわゆる句会場になるのですね。句会が始まりますと、仕切ってあった襖が開けられ、子規の布団が弟子の手によってズルズルズルッと隣の座敷に引っ張り出されます。子規の上半身だけが隣の座敷に出るという形で、子規は上半身だけで句会に参加して指導をしたようです。

その時の句会は十五名の出席ですから、あの小さな座敷に十五名はいっぱいいっぱいだったと思います。ところで講談社が十五巻に及ぶ立派な「子規全集」を出しておりますが、その最後の十五巻に、その句会の模様が明らかに記されております。最後にこの後は子規の定例会はなかったと記してもあり、当時既に子規の具合は余り良くなかったということが判ります。その時の様子を圭岳は遠くを懐かしむような眼差しで、よく話しておりました。

 句会では、席題が十一題、その中に「菓子」と言う題もあり、圭岳が何句作ったかは記されていませんが、十一句が記録に残っています。その当時の選の仕方は、天、地、人をつけるというものでした。結果、圭岳の作品の、

  磯山の紅葉静かに秋の海

に五点入っております。そのほか一点二点ずつでしょうか、計十一点入っております。随分と緊張していたのでしょうが、自分の句に十一点も入り嬉しかったでしょうね。中でも、圭岳を一番喜ばせたのは、梨という題で詠んだ子規の句ではなかったかと思われます。

  汽車待つや梨喰ふ人の淋し皃  子規

実はこの子規の句を誰も選んでおられず、圭岳だけが天の選に取っておりました。それが分かった時、私だけが先生の句を天に選んだ、見る目があったのだと、内心とても喜んだのではないでしょうか。披講の時に「圭岳」と名乗ると、子規がどんな奴だと言わんばかりに枕から頭を上げてぎょろりと父を見たのだそうです。父は、その瞬間全身に電気が走ったような感覚だったと言っていました。十六歳の少年にとってそれはそれは大きな感激だったらしくて、そのことを幾度も私に話しました。圭岳は八十七歳で命を全うするまで、その時の感激を忘れることなく、大きな誇りとしたからこそ、俳句一筋の人生を貫けたのでしょう。これが圭岳の人生にとって最大の出来事であり、人生の軸となったことは間違いないでしょう。

その翌年の明治三十五年の九月に子規は亡くなってしまいますが、父にはもう一度子規に会う機会がありました。それは第五回蕪村忌でありまして、毎年の蕪村忌には根岸庵の前庭に参加者全員が集合して記念写真を撮っていました。皆様もご覧になったことがおありかも知れませんね。しかし、圭岳が参加した第五回蕪村忌の写真には子規は写っていません。既に病状が重篤で動けなかったのです。圭岳は一番後列の端っこで、佐藤禄郎や碧梧桐の近くに写っています。

 で、圭岳の勝手なところなのですが、子規が亡くなり、子規が居ない東京には未練が無いとばかりにさっさと大阪へ戻り、再び大阪で勤務致します。その頃はこんな我が儘が許される佳き時代だったのですね。

  十一年間の中断を経て

 それから暫くは清々さんの主宰される「宝船」という結社に拠りましたが、明治四十二年の秋、圭岳二十五歳の時に「宝船」に投句したのを機に、俳句を中断しております。その時の句が

 みづから句に遠ざかるわれ秋野ゆく

です。そののち十一年間俳句を中断することになります。

何故そうなったかというのが驚きです。当時の句会の中心

におられた月斗さんは薬問屋の若旦那で、句会はお金にも時間にゆとりのある方たちの集まりですから、句会の後には必ずお茶屋遊びをするのです。当時の圭岳は結構女性にもてたらしく、その頃は初代の梅幸に似ているということで、梅幸さん梅幸さんともてはやされ、いい気になっていたのでしょう。それでひと月の支払いが五百円にもなりました。五百円と言えば当時一軒家が建ったらしいですね。そんな風に親のお金を湯水のようにどんどんどんどん使っておりましたので、当然のごとく岡本家も傾いてきますよね。それで家を取るか、俳句を取るか、親から二択を迫られたのでしょう。結局、その時は俳句を諦めたらしいです。それからどういう生活をしていたのか不明です。後年、岡本家再興の話を父から聞いたことはありませんので、遂に没落の運命をたどったようです。父にとって触れられたくなかったことでしょうし、まだ子供であった私には全く興味のないこで、それについて尋ねたこともなく、残念をしたなと思っています。。

 しかし圭岳は再び俳句の道に戻ります。俳句をしようがしまいが、結局は圭岳には商売の才はなかったのだと思います。

大正十年圭岳が三十七歳になった時、その一年前に月斗さんが立ち上げられた「同人」という結社に参加します。そこで圭岳歓迎句会なるものが持たれていますので、大ぴらに作句活動を再開したのでしょう。再開するに当たって、中断するまでお世話になっていた清々さんの「宝船」に拠ることを当然考えたことでしょう。しかし「宝船」ではなく「同人」を選んだ理由として、若い頃からお世話になっている月斗さんの「同人」を手助けしたいという思いが強かったと思われます。もしその時に清々さんの「宝船」に身を寄せるようになっていたなら、私も「運河」で茨木和生先生numberお弟弟子としてご一緒していたかもわかりませんね。そんな事を考えますと、俳句の縁と言うのは不思議で面白いなあとつくづく思います。

「同人」で俳句活動を再開するのですが、その当時改造社と言う出版社から「俳諧歳時記」という立派な歳時記の出版が企画されました。月斗さんに夏の部の編集の依頼があり、圭岳もその仕事を助けます。そんな関わりで「俳諧歳時記」夏の部には月斗さんや圭岳の例句が沢山出ております。また機会がありましたら見てやって下さい。

大正十一年三十八歳の時、復帰してたった一年で「同人」雑詠欄の選者に推されています。その後十四年間編集に携わり、経営の方にも力を入れました。

その後昭和八年四十七歳の時、改造社より「俳句研究」という総合誌が創刊されます。今はこの雑誌は無くなりましたが、その創刊号に月斗さんと圭岳の作品が句ずつ並んでおります。その中の圭岳の作品をいくつか挙げておきます。

凧村情日々に春辺なる 

「村情」はそんじょうと読みます。造語的ですが、恐らく村の佇まいや雰囲気と言うような意味でしょうね。一村が春に近い雰囲気を深めてきたという句意ですね。それから、

我が踏みてわが縺らしぬ凧の糸

という、興味深い句もあります。それに対して月斗さんの作品は〈凧の影窓を掠めぬ小鐘楼〉などがありました。小鐘楼と言うのは、小さな書斎と言うような意味でしょうか。同じ結社でありながら月斗さんの句は何と言いますか、大変伸びやかで、漢詩を素地にしているような特徴が見られます。圭岳のは季節感の微妙な移り変わりを捉えたり人間を細やかに写生したりしております。やはりここでも人事的な句が得意なのかなと推察できますね。

  子規の句碑建立

 それから昭和九年の九月です。この年は正岡子規の三十三回忌に当たります。その二十三日、仲秋の名月、子規を祀るのに一番相応しい日が廻って参ります。それに向けて圭岳はどうしても子規の句碑を建立したいと考えました。圭岳はこの願いを若いうちから強く抱いていましたので、当時指導をしておりましたが神戸の仲間たちにどうしても句碑を建てたいから手伝ってくれと申し出ます。しかし大方ひとりで駆けずり回って、句碑を建てる場所を探し求め、四国へ適当な石を探しに行ったり、随分と苦労していたらしいです。

漸く建立する場所が明石の須磨寺に決まりました。皆さん須磨寺に行かれることはありますか。大門を入って左手直ぐの所に二メートル近くの句碑があります。これが子規の句碑でして、<暁や白帆過ぎゆく蚊帳の外>という刻まれています。子規は日露戦争に記者として従軍しましたが、帰国中の船内で喀血し、明石で療養を余儀なくされた折の句です。

圭岳の悲願が漸く叶いますが、除幕式の日、その二、三日前に近畿地方に室戸台風が大きな被害をもたらしました。月斗さんはその時は大阪桜の宮にお住まいでしたが、二階の屋根が吹っ飛んでしまうほどの大きな被害を受けられました。そんな状況下では除幕式どころではなかった筈です。でも、当然そんなことは分かっていながら、神戸のお弟子さん方を遣いに出して月斗さんの除幕式出席を懇願しました。自分で行けばいいのに、これはずるいですね。

すると、月斗さんも凄いです。「よっしゃ、わかりました」と何の迷いもなく参加して下さることになりました。普通、こんなことは考えられないことです。月斗さんが非常時であるのを解っていながら、出席を頼む圭岳も圭岳なら、それにすぐに応じられた月斗さんも月斗さんですね。ほんとうに二人とも俳句馬鹿としか言いようがありません。 

その句碑開きの写真が一枚残っております。お寺さんと神戸句会の面々が畏まっていますが、父は紋付羽織袴で白足袋で胸を張っています。ところが、月斗さんはお気の毒に、どこかで借りられたのでしょうか、紋付は着ておられるのですが、足元を見ると黒足袋に下駄ばきです。大変な中を出て来られたというのが、写真からも直に伝わってまいります。それにしても当時の俳人は凄いことを事もなげにやってのけるなあと感心させられるばかりです。

 圭岳は十四年の間、月斗さんの右腕となり苦労しながら「同人」を支えてきました。その時の作品を見てみますと、

  ドア重く冷房人を吐けるかな

  雲の峰人間饐えてゐたりけり

「冷房が人を吐く」の発想は今でも度々ありますが、当時では新鮮な発想だったと思います。この頃から冷房設備があったのですね。また、「人間饐えて」と人間の芯のところにまで突っ込んで詠んでいます。新しみを求めて腐心していたことが想像されます。ところで、当時「同人」の若い方たちの中には、いつまでも旧態然とした「同人」の句風に満足できない方々が増え、圭岳もその人達に同情的で、その情熱を無視できなくなり、雑詠欄でも自ずとそういった傾向の句を選ぶようになっていました。圭岳自身が志向する正直な人間臭さや人間の真を求めるような作品を認めるようになったのです。でも、新しいことが芽生えると目に付きますね。出る杭が打たれ始めました。

月斗さんのブレーンの方々から、圭岳は何を考えているのかと、明らかに非難されるようになります。当然ながら、既にその頃には巨匠と言う風格を身につけておられた月斗さんは、若い方々の考えを押さえようとされ、「同人」誌上で直に圭岳を名指しで非難するようになられます。そんな色々の避難にも耐えてしのんでいたようですが、若い方々のエネルギーに背中を押され、遂に「同人」離脱を覚悟したようです。

昭和十一年二月、「同人」を辞退するのですが、「同人」の新年号を編纂し刷り上がったのを見届け、発送の手続きもし、何もかもきっちり終えて月斗さんに「同人」退会の挨拶をしたようです。「円満に引いた」と自分では申しておりましたが、長年圭岳を頼りとされた月斗さんの心中、月斗さんを篤く兄事してきた圭岳の心中を思いますと、お互いに複雑なものがあったことでしょう。二人の決別する辛さは計り知れないものがあったと思います。

こうして多くの若い人たちの情熱と力を後ろ盾に、昭和十一年二月、五十三歳で「火星」を創刊致します。

 この年の時代背景ですが、二月ですから丁度二二六事件が起こり、軍国主義が頭を擡げてきた時代です。これからどんどんと世の中が暗い方へと傾いていくという時期ですね。そんな時代に、何の役にも立たない俳句結社を立ち上げようとする決意は並大抵ではなかったと思えます。と同時に、そんな圭岳を推し、さあやるぞとの思いの若い方々のエネルギーも凄かったのではないかと思われます。

 先ほど月斗さんが誌上で圭岳を酷評された話をしましたが、火星の若い方々も火星の俳壇月評的な欄に、月斗さんの作品を明らかに非難し酷評しておられます。私などはそこまで書く必要があるのかとも思ってしまいますが、これまでの我慢が爆発したような激しい文章です。自分たちの作品を否定され続けて来た怒りやうっぷんが凄い文章を書かせたのでしょうね。

 ただ圭岳はひとり冷静を保っていたようです。その心情を創刊の言葉にも挙げておりますが、第二号にも次のような巻頭言を掲げています。解り易く申しますと、

「自分には伝統も新興もない。ただただ良しと信じる中庸の道を行くのみである。それは何故か、伝統の本質には自律性があり、それを認識している限り伝統は変化し続ける。正しい伝統とはそういうものであり、進歩はその正しい伝統の上で成し遂げられるものである。新興俳句もそいう方向に行かなければならない」

と言っています。圭岳が自分の命が果てるまで中庸の精神を保ったのは、つい極端へと走りがちな若い人に、正しい伝統と言うものを身をもって示したかったのでしょう。

しかし現実では、伝統俳句は古くさいと言われる時代となり、新興俳句が勢いづくような時代になっておりました。「馬酔木」や日野草城さんの「旗艦」また京大俳句などの新興俳句が台頭し始める時代です。いくら圭岳が中庸を唱えても、世間からは「火星」は新興俳句の一角と見られていたようで、軍国主義の政府からもそのように見られ、危うい存在でもあったようです。

そこで、火星におられた陸軍大佐の方から助言受けました。「先生、火星も新興俳句として睨まれている時ですから、俳人として従軍なさったら如何ですか」と言われ、俳人記者として従軍することになりました。それがレジメにあります昭和十三年五十五歳の時の日中戦争従軍です。

何で自らそのような危ない目をしなければならなかったのか、それは無論「火星」のためであったのですが、その昔従軍記者として大陸にわたり、船中で喀血した子規と自分を重ね合わせたのだと思われます。従軍と言いましても、移動する連隊に加わり、移動したその場その場の情景を句に詠んで、それを軍に発表すると言う形をとっていうました。そうして帰国して二年後の昭和十五年、大陸従軍句集『大江』を刊行しております。大江と言うのは揚子江のことですね。兵隊さんたちと陸や川を移動しながら、その場の感慨を詠んでいます。その中で、父は凄いなあ、立派だなあと思うのは次のような作品からです。

 菫かなし馬蹄をのがれ枯草に

 この大き寒き倉庫のみな遺品

 これのみの汗の肌着を遺品とす

これらは戦で苦痛を受ける弱者の立場に立って詠んでいます。かなりの覚悟がなければこういう反戦的な句を詠めなかった筈です。兵隊さんたちと広大な地を移動しながら、戦の悲惨な現実を直に感じたことでしょう。殊に、揚子江に沈んでいる軍艦の帆柱の上を雁が渡っていく景色を、ほんとに悲しい思いで眺めたとよく話しておりました。後々に圭岳は雁の句を多く詠みましたが、この時に見た雁の光景が生涯忘れられなかったのでしょう。

  母との結婚

この時代、父には私の母ではなく先妻さんがいらっしゃいました。そして男の子二人ももうけております。私の腹違いの兄ですね。当然貧窮した家庭内で小さな子ふたりを育てるのは大変だったと思われます。けれどもそんなことはほったらかし、好きな句を詠み、句会で留守ばかりし、更には自ら従軍希望しているのです。家庭を顧みない圭岳にほとほと嫌気がさした奥さんにとうとう逃げられます。まだ手のかかる小さな男の子二人を置いていかれ、途方にくれるみじめな生活をしていたのでしょう。そんな苦境に立たされても俳句を止めないのですから、ほんとに阿保だったのだと思います。世の中の常識というレールから完全に外れた生き方です。

 昭和十七年、私の母横溝勝、後の岡本差知子と結婚することになります。母とは二回り、二十四歳の年齢差があります。好き勝手したあげく、若い嫁さんを貰って、幼い子供二人を押し付けたのですから、したい放題の贅沢者です。

その前から、母の父、私の祖父ですね、その祖父に勧められて母は「火星」で圭岳に師事していました。祖父も下手な俳人で、「同人」時代より大変な圭岳びいきと聞いています。母はその祖父から、また古参の同人ご夫婦から、どうか圭岳先生の晩年を世話してやってくれと、泣きつかれたのです。そんな馬鹿な話はないと思うのですが、後々になり母はどうしても断り切れずに受けたと言っていましたが、はやり俳句の師としては圭岳を尊敬、敬慕する気持ちが強かったのでしょう。自分が頑張ればなんとかなるという程度にしか考えてなかったのでしょう。

ところが実際に結婚してみると圭岳の生活は尋常ではありません。家庭はほったらかし、しかも子供を産んだこともない身で二人の子を育て上げなければいけない。苦労しながらよく耐え忍んだものです。けれど、これはやっぱり俳句が結んだ縁でしょうね。若かった私にはとても理解できない、母と父を結んでいた見えない糸があったのでしょう。

 その後「火星」は潤沢に運営されていきます。中庸を唱える圭岳でしたが、世の中からは前衛俳句結社の印象であった「火星」には、後に前衛俳句へ大きく転換されて退会される方が多く居られました。ご存知の赤尾兜子さん、林田紀音夫さん、堀葦男さん方です。しかしながら、結社とはそういう出入りを繰り返しながら確かな方向性を育てていくもので、これは致し方のない現象でしょう。

改めて申しますが、生業を持ちながら俳句をするのは一般的ですが、圭岳は生業を一切持ちませんでした。常に家庭は火の車です。母は船場のこいさんで苦労を知らないで育った人間ですから、とてもみじめな思いをしたと思います。でも愚痴も言わないで、娘時代のお稽古ごとで身に付けた書道のの腕を活かし、毎日出稽古を繰り返しほそぼそと生計を立て、父を蔭から支え続けました。幼い私は来る日も来る日も留守番ですごしました。夜になっても電灯から下がる紐に手が届かず、真っ暗な中で両親の帰りを待っていました。その時の寂しさは今でもしっかり覚えております。当時は父の俳句極道も、母の苦労がどれほどのものかも知らないで育っていましたので、ただただ留守番の身を悲しむばかりでした。

母が唯一楽しみとしていたのは、父が頂いてくる指導料であったでしょう。でも父は句会から必ず酔っぱらって帰宅し、指導料は酒代に変わり、懐はすっからかんです。当時も相変わらず句会の後の酒席はつきものでしたが、お酒好きは不思議なものですね。家に辿り着くまでは気持ちもしゃんとしているのですが、一歩家の中に入るとぐでぐでになります。父の着物も足袋もよれよれのどろどろです。父は大柄で母ひとりの手におえず、寝ている私は、「ごめんね、お父さんを引っ張り上げるのを手伝うて」と母に揺り起こされます。そういう父の生活ぶりを見て育ちましたから、思春期となった私は父が大嫌いでした。家が貧乏なのは全部父のせい、俳句のせいやと恨んで過ごしました。ところが何がどうなったのか、気づくと私も俳句をし、こうして大嫌いであった筈の父のことを皆さんにお話しをいるのですから、俳句は魔物ですよね。

そういう生活の繰り返しの中、無類の健康体であった圭岳が病にかかります。父が風邪で寝込んでいるのを見たこともなければ、調子が少し悪いと言うのを聞いたこともありません。が、八十五歳になりました頃、長年のお酒とたばこが原因で心筋梗塞を発症し、その後二年間病床に臥せながら亡くなりました。

最後の父の句をあげております。

  かくて冬妻にゆづらん我がいのち

辞世の句で、こんなことを死の間際に言い遺されたら母は「火星」を継がないわけにいかないですよね。普通ならなかなか言えないこと、厳しいことを言って死んだんだなあと思います。母もいろいろ迷ったと思いますが、尊敬する圭岳の言葉を守って、圭岳の後を継ぎました。

  圭岳の句

最後に圭岳の代表的な句についてお話しさせて頂きます。

 四角なる柿はあらじと思へども

これは正岡子規を恋い焦がれる思いが下敷となっています。子規の〈柿食えば〉の句は余りにも有名ですが、あの時の柿は御所柿です。子規はあの柿を十五、六個食べたということですが、こんな小さい柿ですよ。今のような大きなものではなく、角ばった小さい柿です。当時の御所柿はなかなか実が付きにくく、一旦すたれてしまったそうですね。圭岳は今はないと言われるが四角い柿だが、その柿を思うたびに子規先生への思いが熱く蘇る、やはり四角い柿は私のこころの内にあるのだ、と言う気持ちを込めた句です。

  われのみに聞こゆる雁の尚きこゆ

この句を得た時、あの揚子江の上を渡っていく雁の声がはっきりと聞こえたのでしょう。圭岳は、雁の渡りや雁の声を聞くたびに、広大な揚子江を思い、同じ景色を眺めたかも知れぬ子規を偲んだことでしょう。

圭岳は従軍時に着用した軍服をのぞき、生涯を和服で通しました。和服に白足袋、そして草履、それが父のトレードマークでした。で、なぜそれを通したかと言うと、圭岳自身が一般の人とは違う生活をする自分を充分に自覚し、しかしながら信念をもって生き続けている姿のアピールとして、和服を通したのだと思います。父にとって和服に白足袋姿は生き方のシンボルだったのでしょう。ですから、

  白紬()通るものに銀河あり

という句からもそれが見て取れます。「白紬」を通して自分は銀河を感じ、銀河からの言葉を受けている、と言うのでしょう。かなり意識の高い、男のロマンを感じさせる句です。

圭岳は実際に四月一日生れでした。

  四月馬鹿乃ち我が誕生日

娘の私から再三再四、馬鹿とか極道と言われるまでもなく、自分がそれを一番知っているという句ですね。よくもぬけぬけと言ってくれたものです。

  白地よれよれ酒のむことも楽ならず

と、こんな馬鹿馬鹿しい、あほらしい句も詠んでいるのです。でも、人間の生きていく侘しさ辛さが滲み出ていて、人間の真の部分、深いところを突いていると思います。

 十日戎所詮われらは食ひ倒れ

  かき船にまた逢ふ扇雀会の顔

昔、道頓堀には、角座、中座、文楽座と芝居小屋が並んでおり、その道を挟んだ道頓堀川に牡蠣舟の店がずらっと並んでいました。先ほど芝居小屋で見かけた、これは初代の扇雀さんですが、その扇雀会の人達とまた牡蠣舟でも出会ったと言う、大阪らしい光景を人事句に仕立てています。

  白菜をはがしはがして貧に処す

これは母差知子をモデルにして詠んでいると思います。十分判っているのです。苦労かけているという事をね。でも明治の男は間違ってもそんなことは口にしません。が、俳句では抵抗もなく詠んでいるのですから、俳句は面白いものです。

このように圭岳俳句は、人生のどん底を一旦は経験しつつ、その経験を突き放した境地で、淡々と、飄逸に、粋に、大阪特有の情緒を綴り、また人としての真を追い求めています。

先程も申しましたが、父の心の中にはずっと、子規に二度出会ったことの喜びと、自分が最後の最後の子規の弟子であるという誇りがありました。その気持ちの表れとして、毎年「火星」では子規忌俳句大会が持たれていました。

  子規忌今日先生を知る夢の夢

これは亡くなる三ヶ月前の句です。子規への熱い思いを九月に詠み、その三ヶ月後の十二月に亡くなっております。あんなに恋い焦がれた子規のもとに漸く行けたのです。

 私の父、岡本圭岳はこのような俳句馬鹿、俳句極道一筋の人生を貫きました。明治昭和の変動の時代の関西で、圭岳と同じような俳句一筋の生き方をされた俳人は他にも沢山おられます。その方々と、今私達が平和に俳句を詠めるという事実とは、必ずどこかで繋がっております。今日は内輪の恥ずかしいお話までもさせて頂きましたが、これがちょっとしたきっかけとなり、俳句を詠めることの幸せは、明治昭和の代の俳人たちが積み上げて来た歴史という礎があったらばこそと、認識を新たにしていただければ嬉しく思います。

有り難いことに、大阪俳句史研究会ではそんな俳人たちについて学べる講座をたびたびも催しておられます。機会があれば参加頂いて、関西の俳人たちの生き様や功績を学んで頂きたいと思います。必ずご自分の俳句の糧となると思っております。

長長とした話をお聞きいただきありがとうございました。

                              (テープ起こし 坂口夫佐子)