火星俳句会について
「火星の歴史」
岡本圭岳 「火星」創刊、主宰者。
明治17(1884)年
4月1日、大阪市北船場に生まれる。
明治32(1899)年
新聞「日本」「ホトトギス」の正岡子規選に入選。
明治33(1900)年
単身上京し子規指導の根岸草蘆例会、蕪村忌俳句大会に参加。
子規の謦咳に直接触れた経験と喜びは、子規を生涯の師と仰ぎ子規直門を
終生の誇りとする大きなきっかけとなった。
子規没後帰阪し、「ふた葉」「車百合」以来大阪で活躍。その後、休俳。
大正10(1921)年
青木月斗主宰「同人」に寄り十数年の間編集を担当。
昭和11(1936)年2月
旧套脱皮を目指し「同人」を辞退して「火星」を創刊、主宰となる。
雪深し古き駅を後にしつ 圭岳
若ければこそ踏み出し深雪かな
創刊のことば
元より自分には作句の態度にも鑑賞にもいわゆる新興もなけらば伝統もない。
自分の信じてよしと思うものは之れを執り之れを詠うのである。内容の清新なものは偏することなく共鳴するものである。また人おのおの個性があるのはいうまでもない。それを無視しては真の俳句はないはずである。(中略)時代は移る。新興もあろう。伝統もあろう。ただ東洋人としての我らを忘れ得ぬ範囲において。
岡本圭岳の句風
大阪北船場の鴻池筆頭番頭という家柄の長男に生まれたものの、毎日のように続く句会と当時は句会につきものであったお茶屋の豪遊が原因し、岡本家はついに逼塞する。そのため一時は俳句から身を引いたものの再び句の道に戻る。この無残な境涯こそがその後の圭岳俳句の血となり栄養となったはずである。その後は生業をもつことなく俳業を貫き、生活面の苦渋がつきまとった。このような俳句極道ともいえる境涯を踏まえながら境涯性を吹っ切ったところで句を詠み、立て句的な凛呼とした句はもちろんのこと、苦みのきいた飄逸性や粋な大阪情緒に富んだ作品を数多く残している。生涯を和服と白足袋で通したが、その風姿は世俗とは異なる生き方をするという自負と、俳句一筋に生きる心意気を示しているかのようである。
大寒の巌聳つ水の深きより 圭岳
白絣衣通るものに銀河あり
水を飲む呼吸づき蜂の縞うごく
宝恵籠を出る裾こぼれ粉雪ちる
句一念わが白足袋の指太き
寒涛の退くときわれを地ごと引く
白地よれよれ酒のむことも楽なら
四月馬鹿乃ちわれが誕生日
白菜をはがしはがして貧に処す
句集 『大江』(大陸従軍句集)『太白星』『定本岡本圭岳句集』
昭和45(1970)年 没
妻の岡本差知子が主宰継承。
岡本差知子
明治41(1908)年
3月29日、大阪市北船場に生まれる。
昭和11(1936)年
火星創刊に加わる。
昭和17(1942)年
岡本圭岳と結婚。
昭和24(1949)年
第二回近畿俳句作家賞受賞。
小春日の巻けばすらすらまける糸 差知子
かげろうや見えざる糸の両の端
鵙を聞きゐしがずばりと羅紗を截る
昭和43(1968)年
火星主宰継承。
岡本差知子の句風
家庭を顧みない句一念の夫岡本圭岳の最大の理解者として、身につけた書道によって家計を支え続けた。ただならない辛労をしのぎ続けるうちに、日常即俳句・俳句即日常の句境を手中にした。虚弱な体質に鞭打っての精進だけに、さりげない表現の中に芯の強いものが通っている。
吾亦紅わがために咲く花とおもふ 差知子
これが母の死ぬ夜か星の美しき
花の昏さみしさを子に見てとらる
妻にして子弟夜長の茶を淹るる
だまされてゐるやうな昼金鳳花
水仙やこの道をゆく他あらず
句集 『花筐』『岡本差知子句集』
平成15(2003)年 没