今月の火星作品

主宰句

          嗚呼・鱶さん

ゑのころのこんなにも揺れさびしいぞ

 

出棺の刻を待ちゐて穂絮とぶ

 

山気纏うて竜胆のをとこ色

 

喪の明けし人へ葉付きの仏手柑

 

遠き家に灯の入りまこと夕花野

 

町の灯のくだち頃なり西鶴忌

 

山祇の露草なれば露置ける

 

板いちまい花野へ渡し住み古れる

 

のぼさんの頭のやうな梨剥けり

 

み仏に睫のあらば露の秋

 

巻頭15句          

      山尾玉藻推薦

 

花茣蓙の母にとりわけ夕つ風      蘭定かず子

 

前世より来世の近し衣被        坂口夫佐子

 

未明より蟋蟀のこゑ終戦日          山田美恵子

 

熊蟬の世紀末なるごと鳴けり      西畑 敦子

 

立泳ぎの胸へプールの水厚し      湯谷  良

 

水草につかまるごとく昼寝覚      伊藤 由江

 

やまつみのこゑを聞かむと水澄めり   五島 節子

 

絵師に見られ蘭鋳いよよ福々し     亀元  緑

 

誘ふか誘はるるか曼殊沙華       福盛 孝明

 

目の高さへ松の枝もたげ松手入     今澤 淑子

 

戦争を知らぬ頭へ赤とんぼ       するこいつこ 

 

法師蟬大先生の診察日         石原 暁子

 

零れ来しごとく虫の音始まりぬ     永井 喬太

 

日ざらしの川原石より秋の声      山路 一夢

 

精米機うなる八月十五日        藤田 素子

 

今月の作品鑑賞    

  花茣蓙の母にとりわけ夕つ風    蘭定かず子

 母上が縁に「花茣蓙」を敷かれて夕涼みをされているのでしょうか。夕暮れの風が吹く中、そんな母上を眺めていた作者も心満たされていたことでしょう。「母にとりわけ夕つ風」の表現がそれを明らかに語っています。そしてこんな穏やかな時間がいつまでも続くことを願っていたに違いありません。

前世より来世の近し衣被      坂口夫佐子

 観念の世界に陥りやすい理由から、一句に「前世」「来世」を詠み込むことほど難儀なことはありません。しかし掲句、齢を重ねて来た作者には前世を思うよりも来世を覚える方がた易く、またしみじみとした感慨を抱けるのでしょう。その思いをごく平凡で馴染みある食べ物「衣被」に託し、人の情の機微を正直に且つ巧みに表しています。

未明より蟋蟀のこゑ終戦日     山田美恵子

 無論、作者の年齢では終戦日の経験はないでしょうが、映像や経験者たちからその日の情景や敗戦者の心情を聞かされている筈です。夜明け前から頻りに聞こえる蟋蟀の鳴き声に耳を傾け、遠いその日に心を静かに重ねているのです。この場合の虫は静かに鳴きつぐ蟋蟀が相応しく、やや賑やかに啼く螽斯などでは趣は半減するでしょう。

熊蟬の世紀末なるごと鳴けり    西畑 敦子

 「世紀末なるごと」には、社会の最盛期が過ぎて退廃的傾向がみられる時期、また世も末との意味のネガティブな意味合いが含まれているのでしょう。作者には「熊蟬」の騒音ともいえるような鳴き声が、どこかこの世を否定しているかのように聞こえたのでしょう。現実の世を振り返ると少々怖い気もしてくる一句です。

立泳ぎの胸へプールの水厚し    湯谷  良

 他の躍動的な泳法と比べて、立ち泳ぎは静かなエネルギーの持続が必要です。水が泳いでいる胸を直接押し付けてくるようで、水の量感なるものを実感します。この感覚を余計な言葉で綴らず、端的に「水厚し」とした点に感じ入りました。

水草につかまるごとく昼寝覚    伊藤 由江

 昼寝から覚めた時、人は身も心も浮遊しているような不確かな感覚にとらわれます。その頼りない思いを喩えて「水草につかまるごとく」とした点に大いに納得させられました。「昼寝覚」の句に類想のない一句と言えるでしょう。

やまつみのこゑを聞かむと水澄めり 五島 節子

 作者は山中の水辺に立ち、その足元の水がこの上なく澄み、静寂さを湛えている事に注目しています。そしてそれはまるで水が山の神の声を聞き洩らさぬようにと一心に気を張っているように感受しています。水を擬人化した確かな叙法で、この詩的感覚をストレートに読み手に伝えています。

絵師に見られ蘭鋳いよよ福々し   亀元  緑

 一読、浮世絵のような際やかな紅の蘭鋳が脳裏にインプットされる一句です。それは画家ではなく「絵師」と表した由縁でしょう。「いよよ福々し」の措辞から、絵師の鋭い眼差しを悠然と交わしつつ泳ぐ蘭鋳が想像され、なかなか印象的な一句です。

誘ふか誘はるるか曼珠沙華     福盛 孝明

 曼珠沙華の強烈な紅と群成して咲く様子は、確かに我々を惑わせ何かに誘い込む雰囲気を湛えています。同時に、突如と現れる咲きぶりは、眼に見えない力に働きかけられているようでもあります。なるほど「誘ふか誘はるるか」の感応は的を射ています。

目の高さへ松の枝もたげ松手入   今澤 淑子

 よくよく松手入の様子を観察した一句。植木職人の目線よりやや低い松の枝を、職人が自分の目の高さへ持ち上げたのです。しばしば目にする光景ながら、松手入ならではの光景と捉えた観察眼に敬意を表したく思います。

戦争を知らぬ頭へ赤とんぼ     するきいつこ 

 この句も終戦日に詠まれたと思われます。終戦日どころか戦争すら知らぬ幼子の愛らしい頭に赤とんぼが止まろうとしています。それを微笑ましく眺める作者もまた、実際の戦争を知らない立場なのです。平和のシンボルのような赤とんぼがとても眩しく感じられます。

法師蟬大先生の診察日       石原 暁子

 今日はその道の権威とされる老医師の診察日、この医師目当ての年配の患者で待合は混みあっているのでしょう。そんな景を「法師蟬」が揶揄しているようです。「だいせんせい」ではなく「おおせんせい」と読んだ方が味わい深くなるようです。

零れ来しごとく虫の音始まりぬ   永井 喬太

 虫たちは最初から申し合わせて鳴き合っているわけではありません。先ず一匹が不意に鳴き出すと、その声に誘われてあちらこちらから虫の声が聞こえ始めます。この「あちらこちら」とは既成の副詞的表現ですが、作者はそれを空から「零れ来しごとく」と独自の感覚で言い留めました。この感覚に大いに共鳴しました。

日ざらしの川原石より秋の声    山路 一夢

 本来「日ざらしの川原石」から生命の存在は感じられないものですが、作者はそのような石にしんと秋の気を感じ取っています。どのような音も秋を実感させる日、これまでには決して感じられなかった心の発見があるものです。

精米機うなる八月十五日      藤田 素子

最近お米に拘る人の為に町中に精米機が設置され、家庭用の精米機で好みのブレンド米を楽しむ人も増えています。戦前戦後そんな贅沢な時代が来ると誰が想像できたでしょうか。精米機の攪拌音を聞きつつそんなことを思う作者なのでしょう。