2024.4月

 

主宰句

 

ものの芽やおもひつぶさに尽くすべく

 

虫出しや押入れにある乱歩集

 

紅梅に暗む関守石あたり

 

鹿がつと公家顔あぐる夕霞

 

桃ひらく母の鏡の存うて

 

花どきのいつしんに立つ寺柱

 

鳥風やいつぽん締めのあつけなく

 

山笑ふ魚鼓はしつかり玉咥へ

 

蘇枋咲きこのごろ続く浅眠り

 

昼床の延べられてゐし椿の家

 

巻頭15句

     山尾玉藻推薦      

福笹にこの世の宝尽くしけり      湯谷  良

青空をひたすらふふむ冬木の芽     坂口夫佐子    

すき焼の匂ひ残しし一家族       高尾 豊子

雪靴の去にし戸道に籾の塵       蘭定かず子

人間の脚の乱立雪まつり        大内 鉄幹

日輪の青くしたたる崖氷柱       松山 直美

夜焚火のわれもわれもとよまひ事    五島 節子

寒木の辺の馬が尿豊かなる       山田美恵子

病に名つきし安心返り花        藤田 素子

うつしよのひかりをまるく掻く葛湯   するきいつこ

ゆくりなく近火なるらし阿多古札    石原 暁子

断層の上に存ひ冬三日月        小野 勝弘

壇上のスタンドマイク春待てる     芦田 美幸

寒紅梅咲き暮れやすき母の庭      鍋谷 史郎

寒肥の畑を蹴りたつ山鴉        根本ひろ子

 

今月の作品鑑賞 

         山尾玉藻           

福笹にこの世の宝尽くしけり    湯谷  良 

 十日戎では「福笹」に戎札、小判、鯛、大福帳、臼等々、数えきれない程の吉兆を飾り、一年の商売繁盛家内安全を祈願します。そんな欲張りな福笹の様子を描く「この世の宝尽くしけり」の表現は、誠に言い得て妙と言えるでしょう。初戎での浮き立つ一景を切り取っていますが、どこか神頼みにする人間の弱い心理を捉えていて、この点に普遍を感じます。

  青空をひたすらふふむ冬木の芽   坂口夫佐子

 「冬木の芽」は大空へ大空へと懸命に命を育み、漸く膨らみを見せ始めています。見上げると空は美しい碧を湛え、素晴らしい冬晴なのでしょう。普通なら「陽光をひたすらふふむ」となるのでしょうが、それは理に通じる単なる事実で真実を意味しません。青空をふふむ冬芽にこそ真実があり、詩に成りえるのです。事実と真実は世界を異にするものです。    

すき焼の匂ひ残しし一家族     高尾 豊子

 作者は先ほどまで息子さんか娘さんの家族と共に、賑やかな「すき焼」を楽しんだ様子です。その家族も帰ってしまった今、すき焼の匂いが部屋に漂うばかりで、そこに作者は団欒中の楽しさと同時にその後の寂しさを思っているのです。しかしやがてはその匂いも消え失せ、作者に日常が戻ることでしょう。

  雪靴の去にし戸道に籾の塵     蘭定かず子

 「戸道」とは引き戸を滑らせるように設けた溝をさします。作者が「雪靴」を履いた客を送り出した後、ふと戸道に小さな「籾」を見つけたのです。それだけの景を述べながら、雪靴の人物が厳冬の間は土間で稲藁打ち、縄編み、注連縄作り等、農閑期でも多忙な様子を思い浮かばせます。俳句という十七文字の器の限りない深さを改めて思わせる一句です。

人間の脚の乱立雪まつり      大内 鉄幹

 札幌の「雪まつり」のメインと言えばやはり雪像でしょう。掲句、その雪像の様子を詠むのではなく、雪像に立ち止まる人々の脚という実像から、同じ地面から隆と立ち上がる雪の巨大な虚像へと読み手の思いを移行させる、謂わば逆手の詠みをして見せました。その点がこの句の大きな特徴と言えます。

  日輪の青くしたたる崖氷柱     松山 直美

 崖をしみ出る水が氷柱となり、そこに陽光が射している景であり、実際の氷柱の雫はあくまでも透明です。しかしながら「青くしたたる」は、その時の空の青さを強く意識する結果に得た感慨と見ました。

  夜焚火のわれもわれもとよまひ事  五島 節子

 「よまひ事」とは愚痴を言ったり不平をかこつこと。一人が何やら繰り言を言ったのを皮切りに、別の人々が次々と愚痴を言い出したのです。暗闇に燃え立つ焔が、人々が日頃は抑えている胸の内を大いに煽り立てたのでしょう。

 寒木の辺の馬が尿豊かなる     山田美恵子

 寒木に繋がれている馬でしょうか、どうも尿をし始めた様子です。「尿豊かなる」からその立派な音や湯気が想像されます。些末な内容のようですが、これも寒中らしい一景として俳人なら見逃す訳がありません。

   病に名つきし安心返り花      藤田 素子

 体調が思わしくないにも関わらず、確かな病因が分からなかったのでしょう。しかし漸く医師から確かな病名を告げられ安堵した作者です。無論この「安心」は病を得た嬉しさを指すのではなく、治療法が判明した心の安らぎを語っているのです。この場合、自己投影が成された「返り花」は動きません。

 うつしよのひかりをまるく掻く葛湯   するきいつこ

 上五に据えた「うつしよ」と言う抽象的な語に疑問を抱かせる暇もなく、読み手は自然と下五まで誘導されてしまいます。それは滑らか且つ昂らない素直な詠みぶりだからでしょう。「葛湯」らしさをさりげなく詠み下した見事な一元句となっています。

  ゆくりなく近火なるらし阿多古札  石原 暁子

 京都愛宕神社は火防の神を主祭神としていて、火伏せの「阿多古札」が頂けます。さきほどから消防車のサイレンや鉦が気がかりな作者でしたが、聞くとどうも近火らしいのです。胸の高鳴りを押さえながら、棚の阿多古札を大いに意識しているのです。

  断層の上に存ひ冬三 日月      小野 勝弘

 作者が住む明石は六甲淡路島断層帯の真上に位置し、実際二十九年前に阪神淡路大震災を経験されています。そんなことを思いつつ見上げる「冬三日月」が心細さを募らせます。しかし地震だけは如何ともし難く、一晩眠ればまた明日と言う日常が巡ってくるのです。

  壇上のスタンドマイク春待てる   芦田 美幸

 一見何でもない嘱目詠のようですが、壇上にぽつんと据えられてある「スタンドマイク」に存在感があり、作者の思いである「春待てる」を受け止めてゆるぎません。人を介入させない無機質なひと齣が効果的です。

  寒紅梅咲き暮れやすき母の庭    鍋谷 史郎

 この句、「寒紅梅」の明るさにひそむ翳りがよく活かされていて、離れ住む母への作者の気がかりがそれとなく伝わってきます。因みに寒中ではなく春の白梅の咲く母の庭を想像すると、作者のこのような胸中を慮ることはなかなか難しいでしょう。

  寒肥の畑を蹴りたつ山鴉      根本ひろ子

 しっかり「寒肥」が施された畑は、「山鴉」にさえ隙を見せぬほど完全無欠な雰囲気を湛えていたのでしょう。作者が「蹴りたつ」と捉えたのは、畑をつつくのを諦めて飛び立つ山鴉の無念さを思ったからです。