2022.2月

 

主宰句

 

母の家の狭くて深き年の空

 

年の火の昂らせゐる槐の瘤

 

まづみ空称へし女礼者かな

 

振袖の登城坂ゆく松七日

 

薺爪いまだ令和にとほくゐて

 

松明けの日射しの押せる磯馴松

 

春永や米櫃に米見ゆる窓

 

海鼠噛み子にちと意見されゐたり

 

雪しづり鶏冠微かに震へたる

 

寒紅をさし門掃きに出でゆけり

 

巻頭15句

            山尾玉藻推薦                

 

山中のかりがね寒き煙出し       坂口夫佐子

 

ちんまりと白菜育つ女坂        小林 成子

 

馬の背の大いなる湯気寒土用      山田美恵子

 

熊穴に入りしか星のひしめける     蘭定かず子

 

鴨たちの渡りおほせし夕座かな     今澤 淑子

 

冬の蝶水かげろふにまぎれけり     西村 節子

 

この頃の吊革高し裘          垣岡 暎子

 

二百本大根洗ひけふ終ふ        根本ひろ子

 

神杉の高きを恋ふる雪ぼたる      上林ふらと

 

初猟の寄合にする女声         高尾 豊子

 

日の差して日の色となる石蕗の花    藤田 素子

 

雀らの声の枯草かがやける       松山 直美

 

門前のちよつとづつ減る榠樝の実    藤井 玲子

 

粗大ごみ置場に机十二月        成光  茂

 

凩や一両車輌の面構へ         湯谷  良

 

今月の作品鑑賞

     山尾玉藻      

山中のかりがね寒き煙出し     坂口夫佐子

 「かりがね寒し」は雁が渡ってくる頃の寒さをいう秋の季語。山中を行く作者に、空から雁の渡りの声が降ってきたのでしょう。またふと眼にした「煙出し」に山中で生きる人を思い、雁のその声が何かの方便(たずき)になっているのだろうかなどと、色々思いを巡らせたかも知れません。

 ちんまりと白菜育つ女坂     小林 成子

 「女坂」は参道が二手に分かれる緩やかな方の坂。その坂の途中、狭い一画に「白菜」が育っていたのです。その昔は寺の隠し田だったのかも知れません。女坂の語に「ちんまりと」の措辞がよく適っています。

馬の背の大いなる湯気寒土用    山田美恵子

作者の眼前へ勢いよく駆けて来た馬でしょう。辺りの寒気で火照る馬の背から湯気が立っています。その湯気の立つ様を「大いなる」と修辞して馬の雄姿を巧みに伝え、「寒土用」がその姿をいよいよ印象的にしています。

熊穴に入りしか星のひしめける   蘭定かず子

 この場合、「熊穴に入りて」と因果で結ばれていたら、少々強引で嫌味を帯びた一句であったかも知れません。「入りしか」の婉曲な表現が、「星のひしめける」の感性を好もしく伝えています。表現のほどあいをよく心得ている作者です。

鴨たちの渡りおほせし夕座かな   今澤 淑子

 何時もの池で多くの鴨たちが安らいでいるのを見届けた作者は、今は「夕座」に参加しています。はて、作者は鴨が渡り終えたという安堵で、心置きなく経を唱えていたのでしょうか。それとも鴨たちへこころ傾けるあまり、読経に身が入らなかったのかも知れません。

冬の蝶水かげろふにまぎれけり   西村 節子

 「水かげらう」が見られるのでこの日は好天だったのでしょう。水近くを頼り無げに舞う蝶が気がかりな作者でしたが、岩か水辺の壁の水かげろうの辺でふっとそれを見失ったのです。水かげろうの揺れと一つとなって消えた蝶に、まるで白日夢を見る心地となったことでしょう。

この頃の吊革高し裘        垣岡 暎子

 日本人の平均身長が高くなった所為で、電車やバスの「吊革」が高くなっています。ところが齢を重ねると背丈が間違いなく縮み、高すぎる吊革を恨めしく思ったりします。掲句、大袈裟な「裘」が吊革に懸命にぶら下がっているのは、侘しくも可笑しい景と言えるでしょう。    

二百本大根洗ひけふ終ふ      根本ひろ子

 大根の出荷に追われる農家の主婦の感慨もしくは嘱目でしょう。俳句で無数であることをよく「百」「千」の概数で表現をしますが、「二百」とは非常に具体的表現です。しかしそれが功を奏し、寒気中の「大根洗ふ」の辛い重労働ぶりを強く伝えていると言えます。

神杉の高きを恋ふる雪ぼたる    上林ふらと

 「神杉」は崇高な姿でいよいよ天を指し、それにそうように「雪ぼたる」が高みへ高みへと舞いつつ姿を消したのでしょう。主観的な「恋ふ」は要注意の表現ですが、この句の場合の儚げに消えて行った雪ぼたるには適っていると思います。

初猟の寄合にする女声       高尾 豊子

 集会場などで「初猟」の為の話し合いが持たれている様子で、そこから女性の声が漏れて来るのです。その声にはっとする作者には、猟は男性のものという固定概念があったのかも知れませんが、そこがまた人間くさいところです。今やジェンダーレスの時代と言われていますが、一度刷り込まれた意識というものはなかなか厄介なものです。

日の差して日の色となる石蕗の花  藤田 素子

 「石蕗の花」は何処にでも咲く明るい花で、しみじみと眺める花ではありません。それが日輪の力を得て一層輝いているのです。「日の色となる」の喩は的確です。

雀らの声の枯草かがやける     松山 直美

 「枯草」から雀の声はするのですが、その姿は見えません。でもその賑やかな声に枯草までが輝いて感じられたのです。普通は見過ごされるような景にも俳人はこころ留めるのです。だからこそ俳人を止められません。

門前のちよつとづつ減る榠樝の実  藤井 玲子

 固くて渋い「榠樝の実」はいつまでも枝に残っているので、逆に「ちよつとづつ減る」に大いに興味が湧くでしょう。果実酒に摘果されてゆくのか、それとも地面に落下してゆくのか、凸凹とした榠樝の実だけに想像が膨らみます。

粗大ごみ置場に机十二月      成光  茂

 粗大ごみとなった「机」は学習机、それともリビングの机でしょうか。いずれにしてもこれまで重宝されてきた机です。歳晩とは言え「十二月」は心情的にまだゆとりを感じさせる季語であり、作者もそのゆとり感から机に対してしみじみとした感慨を抱いているのです。

凩や一両車輌の面構へ       湯谷  良

「凩」を向かい風に「一両車輌」が駆けてくるのが見えます。強風に小さな体を攫われまいと懸命に走ってくる車両の正面を「面構へ」とは納得の感覚です。読み手もついエールを送りたくなる一句です。