2021.12月
主宰句
穂懸して夕べの水のましづかな
もみぢして母なる子なる帚草
呟いて言の葉こぼす草もみぢ
新藁の敷かれし鳥屋の出払へる
ねずみもちの実が怠けよとそそのかす
奥殿に仏びつしり冬立てり
神留守の厨離れぬ蠅虎
湯気かぶり還りて在す厨神
正座してまつぶさに鴨眺めけり
塞がつてゐし枯蓮の見ゆる席
巻頭15句
山尾玉藻推薦
秋風の窓を離れぬ顏ひとつ 山田美恵子
白桃の紅うつろへる不動尊 五島 節子
母の忌の上座に叔母や菊日和 髙松由利子
邯鄲を聞く集りの相知らず 蘭定かず子
手庇にあまるコタンや小鳥来る 大内 鉄幹
舞殿に木の葉の舞へる秋意かな 坂口夫佐子
秋の蟬雨乞札にぢとゆばり 西畑 敦子
はしやぎつつ戻つてきたる稲雀 松山 直美
溢蚊や波打つてゐる宿の玻璃 松井 倫子
マルシェ出でゐし元町の昼の虫 小林 成子
鰯雲老いを諾ふ装ひに 湯谷 良
川の面のさざなみ捲れゆく残暑 藤田 素子
転がせておけと呉れけり大南瓜 尾崎 晶子
白萩や母の記憶の零るるまま 大谷美根子
鴨来ると朝な夕なに家を空け 今澤 淑子
今月の作品鑑賞
山尾玉藻
初風の窓を離れぬ顏ひとつ 山田美恵子
それとなく思いを伝える句柄であり、この「初風」は初秋の頃の風であるのは明らかです。吹く風に秋の兆しを覚えつつ、通りがかった家の「窓」辺から離れぬ「顏」にも秋の気配を見て取る作者です。初風のデリケートな趣を他人の顔によせて述べた点が巧みです。
白桃の紅うつろへる不動尊 五島 節子
「不動尊」に供えてある「白桃」がうっすらと色づき始めたのでしょう。「うつろへる」が、恐ろし気な「不動尊」に睨まれて戸惑いつつ熟してゆく白桃の気持ちを代弁しているようです。他の仏ではこの一句は成立せず、不動尊が絶対的存在となっています。
母の忌の上座に叔母や菊日和 髙松由利子
「菊日和」の明るさから考え、母上の遠忌と思われます。「上座」に坐られる「叔母」上もさぞ高齢となられたことでしょう。作者はきっと叔母上の横顔に母上の面影を見て取っていたことでしょう。季語「菊日和」の効果もさることながら、叔母上の存在でお目出度い忌日俳句となっています。
邯鄲を聞く集りの相知らず 蘭定かず子
以前は鈴虫を聞く会がよく催されていましたが、最近は「邯鄲」を聞く会もあるのでしょう。流麗な声で鳴く「邯鄲」を聞く集りならば、参集の人たちもきっと上品でもの静かなのでしょう。「相知らず」から邯鄲の鳴き声だけが流れる静粛な空間を想像します。
手庇にあまるコタンや小鳥来る 大内 鉄幹
「コタン」はアイヌの集落のこと。広やかな土地にアイヌ部族が寄り合い、アイヌの生活や文化が守り継がれているのでしょう。眩しいような明るさを湛える大地を喩え、「手庇にあまる」と的確に表しました。「小鳥来る」で一層の明るさを描き出しました。
舞殿に木の葉の舞へる秋意かな 坂口夫佐子
本来巫女舞や能が厳かに繰り広げられる「舞殿」に、今は風に吹かれて「木の葉」が舞うばかりです。ちょっとした現実が働きかけて秋を覚える心情になるのが「秋意」で、掲句の「秋意」になるほどと感じました。
秋の蟬雨乞札にぢとゆばり 西畑 敦子
神社の手水舎の屋根の内側に張られた「雨乞札」の横に止まる蟬を見つけた作者。すると蟬が「ヂヂッ」とひと声挙げ、尿雫を落として飛び立ったのです。雨乞札めがけて尿をひっかけて行ったのではないのでしょうが、雨のお湿りを祈願する札に尿のお湿りがあったのが皮肉っぽく、作者はニヤリとしたことでしょう。
はしやぎつつ戻つてきたる稲雀 松山 直美
少し前にこの稲田の稲を襲い、満足して去って行った雀の一団でしょう。「はしやぎつつ」の措辞より、また存分に餌にありつけると喜び勇んで飛んできた雀達の様子が思われます。この稲田には鹿威しも案山子もないのでしょうか。他人事ながら心配です。
溢蚊や波打つてゐる宿の玻璃 松井 倫子
「波打つてゐる」「玻璃」戸が安宿を想像させます。
そんな宿の「溢蚊」なら結構根性のある蚊に違いありません。倫子さん、ご用心、ご用心。
マルシェ出でゐし元町の昼の虫 小林 成子
「マルシェ」とはフランス語で市場とか個人の出店の意。場所が神戸「元町」だけに○○市などとは呼ばれないのでしょう。「昼の虫」がお洒落で落ちついた大人の町・元町を象徴しています。
鰯雲老いを諾ふ装ひに 湯谷 良
以前は少々若作りの装いをしていた作者なのかも知れませんが、最近は年相応の身なりとなった自分に納得しているようです。「鰯雲」が作者のそんな感慨をしみじみと伝えます。
川の面のさざなみ捲れゆく残暑 藤田 素子
単に「さざなみ」が走る景は涼やかです。しかし「捲れゆく」と捉えたのは、大き目の波がしらが油のようにのったりと走ったからなのです。写生の眼に自身の感覚を絞り出した点が素晴らしく、「残暑」の感覚に納得します。
転がせておけと呉れけり大南瓜 尾崎 晶子
通りがかりの畑の人が「大南瓜」を呉れることになったのです。作者はその大きさに戸惑っていると、「転がせておけ」と付け加えたのです。やや乱暴な言葉のようですが、その裏に温かな人柄が窺えます。
白萩や母の記憶の零るるまま 大谷美根子
徐々に記憶が曖昧になられる母上です。「白萩」の零れつぐ様子に、記憶が欠けていく様子を巧みに重ねた点がなかなか巧みで、読み手をもしんみりとさせます。紅萩ではこの句は成立しません。
鴨来ると朝な夕なに家を空け 今澤 淑子
近所の池に鴨が戻ってきて、何かにつけてそわそわと鴨に会いに行く作者なのでしょう。暫くはこの楽しみに浸れそうですが、「朝な夕なに」出かける作者をご家族はどう思っておられるのでしょうか。ついそんなことまで思ってしまう微笑ましい一句です。