2020.7月

 

主宰句

 

雨男と言はれ海芋を下げゐたり

 

講中に女がひとりほととぎす

 

神饌の李のいろの梅雨入かな

 

夕晴れの父の日の父留守しをり

 

木の暗の流れ卍となるところ

 

小津映画のやうな窓の灯守宮ゐる

 

枇杷葉湯ふさぎの虫を諫めたる

 

独り居のかほどもひろぐ曝書かな

 

疫神のうしろへ廻る蠅叩き

 

瀬の音に草のかむさる暑気中り

 

巻頭15句

            山尾玉藻推薦                

 

絢爛と金魚太れる目借時          湯谷  良

 

焼栄螺噴きこぼれては火を汚し       蘭定かず子

 

朝夕の薬欠かさず菊根分          坂口夫佐子

 

東西屋海市へ行くと口上す         西村 節子

 

松の花疫病神が烟らする          今澤 淑子

 

セロファンをしぶかせて出す三月菜     林  範昭

 

猫の髭ぶるんと震ふ蝌蚪の水        山田美恵子

 

シーソーの水平の上のおぼろ月       小林 成子

 

豆咲いてソーシャルディスタンスとは遥か  尾崎 晶子

 

いつせいに今朝を称ふる百千鳥       西村 裕子

 

直立のトートバッグの日永かな       石原 暁子

 

チューリップの蕾は人を拒みをり      小野 勝弘

 

板橋を撓はせ浸す種袋           加古みちよ

 

雑居ビルに探偵事務所柳絮とぶ       根元ひろ子

 

水神のひと押ししたる花筏         西畑 敦子

 

今月の作品鑑賞

            山尾玉藻            

 絢爛と金魚太れる目借時        湯谷  良

 「絢爛と」「太れる」の措辞により、この「金魚」は琉金や蘭鋳、または出目金などのように、鰭が豊かでお腹がぽっこりと出っ張っている金魚であろう。麗らかな春は眠気を誘う時季、水中で柔らかく靡き続ける鰭を見詰めていると尚更のこと。「目借時」とのモンタージュは的確である。

焼栄螺噴きこぼれては火を汚し     蘭定かず子

 火の上の「栄螺」から煮汁が噴出し、火がじゅっと音を立てると、辺りに香ばしい香りが漂う。ここまでなら今まで数多く詠まれてきたことだろう。しかし、「火を汚し」と火に眼差しを向けた句は珍しい。なるほど、火に煮汁が零れると、焔の勢いは瞬時弱まり不確かな形になる。「火を汚し」は見えている火の奥を見詰めた確かな写生句である。

朝夕の薬欠かさず菊根分        坂口夫佐子

 中七の表現から推測するに、命に係わる病ではないにしても何らかの持病のある身であることが知れよう。しかしながら「菊根分」という細やかな日常的行為が、この作者が病と共に毎日を丁寧に過ごしていることが思われてくる。「一病息災」の佳き意味を実感させる一句である。

東西屋海市へ行くと口上す       西村 節子

 以前も<海市行きのバスに乗りきしチェロケース>なる佳句をものにした作者である。「東西屋」は「とざいとーざい」に始まった「口上」の最後に、これから「海市」まで行くと結んだようだ。滑稽な厚化粧がなかなか垢ぬけた台詞を述べたものと、作者ならずとも愉快になる。同時発表作<船着きにさしかかりたる花筏>にも感じることだが、日ごろ真面目な作風の作者にしてこの上質のウイットは大変貴重であり、今後の作品に幅が生まれる予兆のようで嬉しく思う。

松の花疫病神が烟らする        今澤 淑子

 新型コロナウイルスの所為で自粛生活が続く中、目にするもの全てがもの憂く感じられた。折しも「松の花」の花粉の飛沫どき、作者はあの燻り様は間違いなく「疫病神」の所為だと恨めし気に仰いでいる。

セロファンをしぶかせて出す三月菜   林  範昭

 スーパーで買い求める野菜の大方は「セロファン」の袋に入っている。この「三月菜」はよほど新鮮でセロファン袋もはち切れんばかりであろう。三月菜を袋から出した瞬時を、少し濡れていたセロファンを「しぶかせて」と的確な表現で言い得て、印象深い一句を成している。奥様と家事を分担作業されている作者ならではの鮮やかな写生句。家事など女の仕事と世迷言を申される男性方にこんな佳句は絶対生まれない。

猫の髭ぶるんと震ふ蝌蚪の水       山田美恵子

 数匹の「蝌蚪」がチョロチョロ泳いでいるのは可愛らしいものだが、群れて蠢いているのは少し気味が悪い。そんな蝌蚪が群れ動く水を「猫」が飲みに来て、濡れた髭をブルブルンと振った。これは単なる猫の習性だろうが、作者は猫もきっと蝌蚪の群が不気味だったに違いないと納得したようで、その点に共鳴する。

シーソーの水平の上のおぼろ月      小林 成子

 昼間子供たちが乗り捨てた「シーソー」が、たまたま水平を保ったまま夜闇に浮かび、その真上に「おぼろ月」が上っている一景。そんな景からまるでシーソーが中天に月を撥ね上げたように思え、作者は興を抱いたのである。際立った一本の直線とその上でぼんやりと浮かぶ円形が鮮明な一枚の絵となっている。

豆咲いてソーシャルディスタンスとは遥か  尾崎 晶子

 作者はご主人と共に趣味で野菜や果実を育てておられ、私はその腕前はプロ並みと見ている。非常事態宣言が解除されても「ソーシャルディスタンス」なる約束事が設けられ、人との関わり方もどこかぎくしゃくしてしまった。畑では今年も変わりなく豆が愛らしい花を咲かせているというのに、つくづく厄介な世となったものだ、との作者の嘆きが聞こえてくる。何気なく優しい豆の花の存在がこころを癒してくれる。

いつせいに今朝を称ふる百千鳥      西村 裕子

 よほど好天の朝を迎えられたのだろう。常にもまして「百千鳥」の声々が楽し気に聞こえてくる。「今朝を称ふる」は自然とこころを一つにする境地から生まれた実感で、素直な歓びに溢れる措辞である。

直立のトートバッグの日永かな      石原 暁子

 「トート」は「運ぶ」「背負う」の意の英語の俗語であり、「トートバッグ」とは無駄な装飾を一切削って二本の持ち手だけの機能性バッグ、謂わばバケツ型のバッグである。蓋のないそれがでんと座る様子に、作者はどこか間抜けな様子やルーズさを覚えたのではなかろうか。「日永」と取り合わせてパロディックな味を含む一句を成している。

チューリップの蕾は人を拒みをり   小野 勝弘

 どのような花でも蕾の内は何かを秘めているように感じるものだが、そのような中で「チューリップの蕾」は「人を拒みをり」と作者は強く主張する。チューリップの花は至って明朗な雰囲気を湛え、全く翳りを感じさせない花。それ故、作者はその蕾に真逆の暗いイメージを抱いたのであろう。

板橋を撓はせ浸す種袋          加古みちよ

 この種袋は米の籾種だろうか、草花の種袋だろうか。門川にかかる小さな「板橋」に屈む横顔に、発芽を願う神妙さが窺い知れる。「板橋を撓はせ」からそれがじんわりと伝わってくる。日本の原風景が此処にある。

雑居ビルに探偵事務所柳絮とぶ    根本ひろ子

 萩原健一主演のドラマ「傷だらけの天使」のオープニングシーンを思い出した。ヘッドホンに水中眼鏡をかけ、トマトを齧り牛乳をラッパ飲みする、あんなやんちゃな探偵が居るような「探偵事務所」だろうか。「雑居ビル」自体にも少々いかがわしさを思わせるのは、他ならぬ「柳絮とぶ」の鬱としたイメージの働きである。季語は言葉以上のものを限りなく語り掛ける。

水神のひと押ししたる花筏       西畑 敦子

 各地の田や用水路に祀られる水神は田神と結びつき、吉野丹生川神社の罔象女神のように山神と結びつく水神もある。そんな神の祀られる近くの流れで滞っていた「花筏」が、不意に流れ始めたようだ。古来より水神の遣いは河童、蛇、竜とされており、神の命によりその何れかが花筏に力添えしたかも知れず、ロマンを感じさせる一句である。