2020.2月

 

主宰句   

 

風の木の鳥の木となるお元日

 

木守りの柿称へけり門礼者

 

蓬莱の真上なるべし鳶の声

 

読初を伏せ夕映えの鴨の胸

 

太白星の方へ帰ると傀儡師

 

人の世にちよつとかかはる餠間

 

じやが芋のでこぼこ面も餠間

    

梟になら昨夜の夢明かしもす

 

水鏡てふ水へ寄る寒鴉

 

春永の日へむき墓石おびただし

 

 巻頭15句

            山尾玉藻推薦                  

 

煤逃に湯気にぎはしき屋台村     山田美恵子

 

掛蒲団白鳥ほどに畳まるる      蘭定かず子

 

一陽や紺屋の前の紺屋川       坂口夫佐子

 

冬麗の弥陀の畳に残さるる      今澤 淑子

 

遠目して蘆火の雨を呼ぶ気配     湯谷  良

 

寒晴の山を鎮むる山の襞       五島 節子

 

冬青空見上ぐるもののみな小さし   小林 成子

 

はららごの沈む浅瀬を酒の群     大内 鉄幹

 

動かぬと見え浮かみたる冬の蝶    松山 直美

 

気がねなく今はかうして秋桜     鍋谷 史郎

 

信玄の榠樝なりけるつらがまへ    井上 淳子

 

力抜くこと太極拳に水鳥に      尾崎 晶子

 

東京も新大阪もしぐれゐし      成光  茂

 

青空を映すことなく秋出水      窪田精一郎

 

枯芝をぬくしと思ふ遠ながめ     越智 伸郎

 

今月の作品鑑賞

            山尾玉藻            

煤逃に湯気にぎはしき屋台村     山田美恵子

 「煤逃」をするような人物は日頃から家事を手伝わぬ古いタイプの男性に違いない。「屋台村」には同類の男性方が肩を並べ、他愛もない世間話を肴に昼酒を楽しんでいるのだろう。お気楽なものだと感心するが、かなり羨ましくもある。年末の慌ただしさの中、この屋台村だけは普段どおりの時が流れる空間である。

掛蒲団白鳥ほどに畳まるる      蘭定かず子

畳まれた「掛蒲団」の容を「白鳥ほどに」と捉えたのは、白いカバーが掛けられた羽毛蒲団であったからだろうか。それとも、昨日間近にした白鳥の美しい姿を忘れられないでいた所為だろうか。いずれにしても単なる想像だけではこの感覚は生まれなかったであろう。「白鳥ほどに」の喩えにこころ惹かれる。

  一陽や紺屋の前の紺屋川       阪口夫佐子

  飽きるとか飽きないとかでなく冬至  坂倉 一光

 「一陽来復」「一陽」は冬至の異称、そこで冬至の二句を並べてみた。この日を境にこれまで極まった陰の気が少しづつ陽の気に転じていくのが「冬至」である。冬至を迎えると何処とはなくこころ浮き立ち、同時に一年の終りを迎える気忙しさもぼんやりと覚え始めるだろう。一句目、大和郡山市紺屋町には城址の堀から流れてくる細い水路(紺屋川)があり、川筋には江戸時代から続く藍染屋(紺屋)が残っている。その事実と一陽とに何ら関りはないのだが、「紺屋川」「紺屋」のしたわしいひびきが一陽の嬉しさに叶っていると思う。二句目、作者は冬至の日に抱くこころの動きを、理に適うように述べたり、箴言臭いもの言いなどせず、「飽きるとか飽きにないとかでなく」と作者独自の言葉で皮肉る。「おいおい君たち、時間に飽く飽きないなんて言ってる暇などないんだよ、時は一年サイクルで間違いなく巡ってくるのだから」と。

  冬麗の弥陀の畳に残さるる      今澤 淑子

 幾人かで阿弥陀如来を拝しつつ、よほど一心に祈り願っていた所為か、気づくと一人となっていた。柔らかい冬の日差しが届く畳に座し、あと暫く如来と静かにこころ通わせていたい作者。 

遠目して蘆火の雨を呼ぶ気配     湯谷  良

 遠くに眼を凝らすと蘆刈りの人影が火を熾すのが見え、どうもその頃から蘆原の辺りに雨の気配が漂い始めたと気づいた作者である。火とは言え「蘆火」はとても寒々しいもので、そんな「蘆火」だからこそ雨の気配を濃くしたと捉えたのである。

  寒晴の山を鎮むる山の襞       五島 節子

 「寒晴」のびしっと引き締まった空気感に誘われ「山々」も高揚しているとまず反応した点、そしてその昂ぶりを抑えるかのように「山の襞」たちは深い翳りを静かに湛えていると感応した点、どちらにも詩人のこころが深く働いている。写生を手立てとした感性の一句と言えるだろうし、同時に繊細なタッチで描かれた一幅の絵のような一句でもある。

  冬青空見上ぐるもののみな小さし   小林 成子

 こちらは「冬青空」、やや優しさを湛えた蒼穹である。鳥影、機影、冬木の芽等が一点の光となって碧天を指しているように見え、それを「みな小さし」と捉えた点に独自性がある。

  はららごの沈む浅瀬を鮭の群     大内 鉄幹 

私は映像で知るばかりであるが、鮭が産卵の為に川を遡上しジャンプする懸命な姿には胸打たれる。そんな中、激流にもまれて雌のお腹の「はららご」がえぐり取られることもあるのだろう。川底に沈むはららごの上を、それでも鮭たちは必至で遡る。生あるものに課せられた運命の厳しさを突き付ける一句であり、果たして人はここまで懸命に生きているのかどうかと省みさせる一句でもある。

  動かぬと見え浮かみたる冬の蝶    松山 直美

 葉の上で動かぬ「冬の蝶」を憐れみの思いで眺めていた作者だが、不意にそれがふわと浮き上がったように見えて驚いた。蝶が余力を振り絞って少し羽を持ち上げたのか、それとも風を孕んだ葉が浮き上がっただけだったのかも知れない。しかし「冬の蝶」が静かに命を温存するという真実に改めて気づいた一瞬である。

 

気がねなく今はかうして秋桜     鍋谷 史郎

 「気がねなく今はかうして」は誰かの話し言葉か、それとも作者の思いであるのか、解釈は自由である。このフレーズは「これまで人生に様々なことがありましたが、今はそんなことからも解放されゆったり生きています」という、誰に向かって言うでもない感謝の思いで洩らされた正直な言葉であろう。即ち、風のままに揺れて過ごす「秋桜」の境地なのである。

  信玄の榠樝なりけるつらがまへ    井上 淳子

 信玄ゆかりの地の「榠樝」を見上げた折の寸感であろう。武田信玄は「甲斐の虎」と呼ばれ智力溢れる戦国時代最強の武将と言われる。自ずとその剛悍な風貌も想像されるが、ごつごつと武骨な「榠樝」を信玄の「つらがまえ」と喩えて俳味充分である。

  力抜くこと太極拳に水鳥に      尾崎 晶子

 「太極拳」をされる作者は、人が「力を抜くこと」の難しさを身をもって経験しておられるだろう。それに比して水に漂う「水鳥」や浮寝鳥は全くの自然体で力を抜いているようだ。「〇〇に○○に」と並列の形をとりながら、全く逆なる二物を配している点が巧みであり、読み手はそこのところを見逃してはならない。

  東京も新大阪もしぐれゐし      成光  茂

 東京駅を出る時も、新大阪駅に着いた時も、そういえば時雨模様だったと振りかえる作者。無論それぞれ違った時雨であるが、二つの固有名詞が功を奏しこの時季特有の季節感を巧みに言い得た。

  青空を映すことなく秋出水      窪田精一郎

 普段は「青空」を映しつつ穏やかに流れる川なのだろう。しかし今日、空は普段と変わらず晴れ渡っているというのに、川は空とは一切関わりを持たない濁流と激変し、辺りを猛々しく襲いつくしている。自然の脅威に息をのむばかりである。

 

  枯芝をぬくしと思ふ遠ながめ   越智 伸郎

 言われてみれば、近々と「枯芝」を眺めても一向に「ぬくし」の思いを抱かぬものだが、遠見して広さと奥深さがそなわって初めて暖かさを湛えるのが「枯芝」なのだろう。そこに一つの発見がある。