2019.5月

 

主宰句 

 

戒名を貰ひ来し母豆の咲く

 

ご住持の挿木のならぶ首尾不首尾

 

雨雲へ立てなほしけり和布刈棹

 

先生の家の前過ぐ春休み

 

まほらなる風の窪みの花菫

 

花ゑんど兄に口止めされしこと

 

涛音を紺と聞きをり花の陰

 

水の辺へややに傾く花筵

 

蟇穴を出で仏頭のめつむれる

 

春陰やだしぬけに立つ軍鶏の首

 

巻頭15句

            山尾玉藻推薦     

 

峰からの風のみづいろ卒業歌       蘭定かず子

 

花どきの風邪ごもりなる箸づかひ     山本 耀子

 

杉戸絵の軍鶏かしこまる大石忌      林  範昭

 

牡丹雪祇園たちまち更けにけり      山田美恵子 

 

キムチ漬けゐる円陣のあたたかし     坂口夫佐子

 

鶴橋や輪ゴムで括る干鱈の尾       大山 文子

 

なやらひの闇の千切れし鹿ケ谷      深澤  鱶

 

とかげ穴を出でたるところ鶏の足     湯谷  良

 

本堂にあかき膝掛け鳥雲に        小林 成子

 

水音にぽちと色きし桜の芽        西村 節子

 

たんぽぽのいま日溜りにかなふ色     根本ひろ子

 

春寒しトムヤンクンの紅と赤       藤田 素子

 

やられしと云ふ鮟鱇の貌ばかり      越智 伸郎

 

まほらまの野梅手折らば都人       石原 暁子

 

ひとつづつ卒業式の椅子たたむ      坂倉 一光

 

今月の作品鑑賞

            山尾玉藻         

峰からの風のみづいろ卒業歌     蘭定かず子

 「風のみづいろ」とは、校舎から仰ぐ雪の連峰より吹く風に雪解どきを実感しているからでしょう。雪解風に乗った校歌が厳粛にも大らかに流れ、それに応えるかのように陽光を浴びた雪の峰々が光り輝いている様子が想像されます。希望に満ち溢れた歓びが息づく早春の一齣を切り抜いた一句です。

花どきの風邪ごもりなる箸づかひ   山本 耀子

 桜が開花する頃は気候が不順でつい風邪をひいてしまいがちですが、この時季の風邪は治りが遅くなかなかすっきりとしないものです。外ではあんなにも待たれた桜が咲き満ちているというのに、外出もままならず、いよいよ気重いことでしょう。動きの鈍そうな「箸づかひ」にそんな憂さが顕著に見て取れます。

杉戸絵の軍鶏かしこまる大石忌    林  範昭

 この「杉戸絵」はかなりの年代物と思われます。鮮やかな色彩の「軍鶏」なら、立派な鶏冠も顔も真っ赤な上に眼光も蹴爪も鋭く、作者に強烈なイメージを与えたに違いありません。しかし、意外にも作者に落ち着いた印象を抱かせたのは、本来の色彩がかなり剥落していたからだと考えます。そして、この印象が元々作者の心中にあった「大石忌」という意識と繋がって「かしこまる」という感慨を生んだのでしょう。

牡丹雪祇園たちまち更けにけり    山田美恵子

 祇園界隈は一般の女性には余り馴染みのない場所で、異文化の世界です。作者も辺りの物珍しさに気を奪われ、夕方の肌寒さをつい忘れていたのでしょう。しかし「牡丹雪」が降り始め、不意に冷えを覚え始めたのでしょう。「たちまち更けにけり」の思いにそれが窺えます。柔らかにふる牡丹雪は、掃き清められた格子戸、四時垂れさがる簾、茶屋一力の紅殻壁など、灯ともしごろの祇園の町並みに限りなく相応しいものだったでしょう。

キムチ漬けゐる円陣のあたたかし   坂口夫佐子

   鶴橋や輪ゴムで括る干鱈の尾     大山 文子

 鶴橋吟行での嘱目詠二句ですが、吟行では思わぬ出会いがあるものです。

 一句目、鶴橋駅を出ると直ぐに迷路のようなコリア市場が続きます。当然店頭に溢れる「キムチ」に眼が行くものですが、作者は市場の裏でキムチを漬けるオモニ達に着目したのです。賑やかな韓国語は理解できないにしても、その楽しげな様子から自ずと穏やかな思いとなったのでしょう。

 二句目、乾物屋には「輪ゴム」で纏められた「干鱈」が裸のまま無造作に立てかけられていて、過剰に包装された品物は殆ど見当たりません。買い手が値切れば店のオモニが「とっとと買ってよ~」と面白可笑しく急きたてます。そんな飾りっ気のない町が鶴橋なのです。

なやらひの闇の千切れし鹿ケ谷    深澤  鱶

 銀閣寺から永観堂までの哲学の道をたどって知恩院辺りまでの如意ケ岳の麓は「鹿ケ谷」と呼ばれ、神社仏閣が点在しています。その何れかで執り行われた追儺会の闇は、途中真闇となりながら、また別の場所の追儺会の闇へと繋がってゆくのでしょう。鹿ケ谷の在りようを「なやらひの闇」に託して表現した点が大変巧みだと言えるでしょう。

とかげ穴を出でたるところ鶏の足   湯谷  良

 運の悪い「蜥蜴」がいたものです。漸く穴を出た途端に「鶏の足」に出くわしてしまっては、余りにも気の毒です。どうしてもその後の顛末が想像されてしまいます。自然の摂理ほど厳しいものはないのでが、それをあっけらかんと述べたところにこの句の凄さがあります。

本堂にあかき膝掛け鳥雲に      小林 成子

僧侶のものでしょうか、それとも参詣者のものでしょうか、「本堂」の隅に畳んである「あかき膝掛け」が際立ち、逆に辺りの薄暗さや静けさを物語っているようです。そんな具象と「鳥雲に」とのモンタージュで、一句に重層性を生みました。

水音にぽちと色きし桜の芽      西村 節子

 辺りに流れるリズミカルな「水音」が「桜の芽」を膨らませ、ほんのりと色づかせているとの見立ての一句です。「ぽちと色きし」のどこかコケティシュな表現により、読み手のこころも浮き立ってくるようです。

たんぽぽのいま日溜りにかなふ色   根本ひろ子

 「たんぽぽ」の咲く辺りに今しも日が差し、それまで陰り気味であったたんぽぽの黄色が俄然色濃く感じられたのでしょう。その率直な感応が「日溜りにかなふ色」なのです。やはり日を浴びてこそ真のタンポポなのですね。

春寒しトムヤンクンの紅と赤     藤田 素子

 「トムヤンクン」は辛味と酸味、複雑な香りが特徴のタイの赤っぽいスープ料理で、新しもの好きな若者を中心に人気の料理です。さしずめ「紅と赤」の紅は唐辛子でしょうか、赤は海老でしょうか。「紅と赤」と重複させたビジュアル効果で一層の辛味と酸味を想像させた点で成功しています。

因みにこのような流行りの対象にいち早く着目する姿勢を否定するつもりはないのですが、目新しい対象をなる好奇心で詠んだだけの句は新しいとは言えないでしょう。必ずそこに対象の真実が捉えられていてこそ真の意味での新味と考えるからです。

やられしと云ふ鮟鱇の貌ばかり    越智 伸郎 

 糶場で「鮟鱇」が平たく納まる幾つものトロ箱が並べられているのでしょう。鮟鱇は大きな扁平の顔の割に小さな眼がぽっちりと可愛らしいのですが、だらしなく開いた口には鋭い歯が露わで、どう見てもアンバランスな顔立ちをしています。なるほど、「あ~あ、やられてしまった」と無念そうな声を漏らす間抜け顔が見えてくる一句です。

まほらまの野梅手折らば都人     石原 暁子

 「まほらま」は「まほら」と同義で、すぐれた良い所や国を表す詞です。辺りに「野梅」が咲き満ちて雅な香りが漂う中でこころ満ち足りている作者です。少々気障っぽくも感じる表現ですが、溢れ出る思いを素直に綴ったのでしょう。読み手を豊饒な世へと誘ってくれます。この寸感は人の手の加えられた梅園では得られるものではなく、自然のままの野趣ある「野梅」でなければ得られなかったものでしょう。

ひとつづつ卒業式の椅子たたむ    坂倉 一光

 無事に「卒業式」を終え、今はがらんとした式場にパイプ椅子が畳まれてゆく音だけが響いているのでしょう。作者は現役の高校教師。「ひとつづつ」の表現に、椅子を畳んでゆくたびに卒業生の一人一人の顔が浮かび、こもごもの感情を覚えているのが手に取るように想像されます。ところで、この作者は軽妙洒脱な句作りを得手としていますが、この作り方はうっかりするとポイントがずれ、単なる些末な内容に陥る危険性を潜んでいます。その点、掲句のように自己に引き付けて詠んだものには必ず真実があり、人のこころをしっかり摑む力があります。