2019.4月

 

主宰句 

 

雛の日の蕎麦湯を待つてゐるところ

 

草餅のむべ万葉の野の匂ひ

 

蜥蜴出づまぬがれがたき尾を曳いて

 

内浦の遠音もあらぬ古巣かな

 

蝌蚪群れてかたみに憂ふ大頭

 

島原の大門(おほと)の内を囀れる

 

竹皮につつむ赤肉涅槃西風

 

観音の里桑を解く堰を切る

 

白雲の睦びつつ過ぐ御開帳

 

廃線に巣籠りの空あるばかり

 

巻頭15句

            山尾玉藻推薦     

 

獅子舞に家内膨らみきたりけり      蘭定かず子

 

飾海老もののふ振りににほひたる     深澤  鱶

 

追羽根や貧しき頃の音のして       坂口夫佐子

 

初風やえびす袂をひろげたる       小林 成子

 

春永やアイヌが熊を彫る木屑       上原 悦子

 

冬はつとめて満月を見届くる       大山 文子

 

渾身の力のかたち木の根あく       大内 鉄幹

 

大文字の大の鴇いろお元日        山田美恵子

 

寒鯛の鱗剥がされたる青さ        湯谷  良

 

若菜野やひかり差し来しところまで    山本 燿子

 

ゆるやかに人分けゆけるシクラメン    根元ひろ子

 

元日までとつておきたき話かな      藤田 素子

 

ちちははの仏間に久の朝寝かな      西畑 敦子

 

電気柵はづして入りし初社        藤本千鶴子

 

合はす手の片方日ざす初戎        高尾 豊子

 

今月の作品鑑賞

            山尾玉藻          

 

獅子舞に家内膨らみきたりけり     蘭定かず子

 私の子供の頃の正月風景の忘れられないものの一つに「獅子舞」があります。「おめでとうございます」の威勢の良い声にこころ躍らせて玄関の戸を開けると、華やかな装いの獅子舞の二人連れがにこやかな笑顔で立っていました。笛の音に合わせ獅子がひとしきり舞うと、それまで静かな淑気の漂っていた家内が忽ち華やかな雰囲気となったものです。その思いが「家内膨らみきたりけり」に的確に表されていて、大いに共感しました。

飾海老もののふ振りににほひたる    深澤  鱶

鮑、栗、昆布、橙などが飾られる蓬莱台に茹でられた鮮やかな朱色の海老が添えられると、いかにも正月らしい厳かな雰囲気が生まれます。掲句の「飾海老」は恐らく伊勢海老でしょう。「もののふ振りに」の措辞より、甲冑を纏ったような緩みのない殻に包まれ、ぴんと張った立派な髭の海老が想像され、なんとも目出度い気分となります。

追羽根や貧しき頃の音のして      坂口夫佐子

 まだ大方の国民が貧しかった昭和二、三十年代、正月の戸外の遊びといえば、男の子は独楽まわしと凧揚げ、女の子は追羽根か毬つきが定番でした。年が明けるのを待ち兼ねていたように、元日の空のあちこちに奴凧が高々と上がり、庭先や路地で追羽根の音が盛んに聞こえたもです。殊に女性はどれほど齢を重ねてきても、往時の羽根つきのあの乾いた音が忘れられません。それはまさしく「貧しき頃の音」であり、貧しかったからこそ純一な音でもあるのです。

初風やえびす袂をひろげたる      小林 成子

掲句もまた懐かしい景を詠みあげました。新年のもう一つの門づけに漫才があり、軽妙な掛け合いをしながら家々を巡って寿ぎを述べました。直垂(ひたたれ)を着た漫才大夫は愉快な身振り手振りで舞うのですが、「袂をひろげたる」はその目出度い一齣です。間接的に季語「漫才」を詠みつつ、直接の季語を「初風」としたことで、目出度さや大夫の袂の華やかな揺れなどを鮮明に印象付けています。

春永やアイヌが熊を彫る木屑      上原 悦子

 新年になってのんびりした気分を楽しむ風情を意味する季語が「春永」です。初旅で北海道を訪れたでしょうか、作者は熊の木彫り実演に春永を覚えているのです。新年らしい陽光の中での木彫り作業なのでしょうが、取るに足らぬ「木屑」にのみ焦点を絞ったことで、辺りの長閑に落ち着いた雰囲気を増幅させています。

冬はつとめて満月を見届くる      大山 文子

上五「冬はつとめて」の枕草子風出だしは少し機知的とも思われますが、作者にとって大真面目な叙法なのかもしれません。そう思わせるのは「満月を見届くる」に大いに納得させる力があるからです。寒夜の満月には人のこころを高揚させるインパクトがあり、仲秋の美しい名月にはこの印象はないと言えるでしょう。

渾身の力のかたち木の根あく      大内 鉄幹

 雪国の人たちは「木の根開く」を目の当たりにし、ようやく訪れた春を実感するに違いありません。樹木の足元に現れた黒々とした丸い形は、命の目覚めを伝える形であり、樹木が冬眠中にひそやかに培っていた生きる力を象徴する形なのです。「渾身の力の」は時と場所を得た絶対的修辞と言えるでしょう。

大文字の大の鴇いろお元日       山田美恵子

 作者が京都へ初詣にでも出かけた日の夕近く、何気なく如意ケ岳を振り返り大いにこころ動かされた様子です。如意ケ岳の「大文字の大」の跡が夕茜に染まっていたのでしょう。常日頃も見られる普通の夕べの景である筈なのですが、「お元日」というあらたまった思いが「鴇いろ」と強く意識づけたのでしょう。

寒鯛の鱗剥がされたる青さ       湯谷  良

 鮮魚店で「寒鯛」を捌いて貰ったのでしょうか、手早く鱗がはがされて鯛の身が露わとなってきたのです。それは実際に青っぽい色を湛えていたのかも知れませんが、作者の寒々しい思いが敢えて「青さ」と言い切ったのでしょう。具象に心象が籠められた一句です。

若菜野やひかり差し来しところまで   山本 燿子

 やや日陰る「若菜野」で七種を摘んでいた作者は、ふと野の遠くに日が差してきたのに気づいたようです。同時に、それまで夢中で若菜を摘んでいて、気づかなかった身の冷えも急に感じたのかもしれません。ゆっくり腰を上げ、日当たる場所を歩み出す作者が見えています。新年らしい瑞々しい一景。

ゆるやかに人分けゆけるシクラメン   根本ひろ子

 作者は「シクラメン」の鉢を抱えた人が雑踏をゆっくりと抜けていく景にこころ惹かれたのです。人の流れと逆方向へ、それも流れに抗うことなく自然に流れるようなシクラメンの景は、辺りの混沌とした景に射し入る光のように見えたのでしょう。何色のシクラメンであったのか、鮮やかな景を切り取った佳句と言えます。

元日までとつておきたき話かな     藤田 素子

 句の内容から考えて掲句は年末の数へ日あたりの寸感でしょう。話の内容が大変喜ばしことだったのか、こころ温まることだったのか、もしその日が「元日」であったなら寄り集まる人たちとその嬉しさを共有できたのに、と少々残念がっている様子です。歳晩の季語に依存せずに来る年への期待をこんな風にストレートに詠み込めるとは、私には思いもよらぬことでした。

ちちははの仏間に久の朝寝かな     西畑 敦子

 帰郷した折の感慨でしょう。「ちちはは」の眠る「仏間」で、ちちははと共に「朝寝」をゆっくりと楽しむ至福のひと時です。「久の」の一語が作者の幸せをこの上なく語っています。

電気柵はづして入りし初社       藤本千鶴子

 「電気柵」を張り巡らせて田畑の作物を猪や鹿の被害から守っている地でしょうが、近くのお社へ初詣に行くのにさえその電気柵を外さねばならないようです。「やれやれ厄介な」とでも言いながらも、「初社」へ向かう足取りは新年らしくあらたまったものだったことでしょう。ローカル色豊かな新年詠。

合はす手の片方日ざす初戎       高尾 豊子

「初戎」の神前、思いを込めた合掌の片方の手の甲に日差しを覚えたのです。普段なら何ということもないトリビアルな感覚なのですが、初戎だからこそ手の甲にまでも作者の気が満ちているようで、読み手にも温かな嬉しさ、喜びが伝わってきます。