2019.1月

 

主宰句 

 

枯野ゆく車中朝日に膨れけり

 

楽譜読む人がとなりに冬日向

 

快癒せし音に落葉を踏みなさる

 

杉山のかかり日溜まる寒さかな

 

諭さるる子もしつかりと着膨れて

 

寒波来る猿の瞼のももいろに

 

耳掻きのぼんてん浮かぶ冬の雷

 

酢海鼠をねんごろに噛む月の痩

 

余呉あたり雲とどこほる餅配

 

涙目となつて年の灯守る子かな

 

巻頭15句

            山尾玉藻推薦     

浦は灯を鎧ひ台風接近す         蘭定かず子

七草にあらざる鶏頭の捩れ        深澤  鱶

紫蘇の実の奥歯にさはる通夜の膳     山本 耀子

豊の秋ひと駅ごとのアナウンス      小林 成子

うた詠みの引きし二階に小鳥くる     今澤 淑子

倒木の肉色さらす野分あと        坂口夫佐子

秋風にころぶ双子のひとりかな      藤田 素子

おのころのひねもす烟る穴惑       大山 文子

門灯のとぼしく浮かぶ籾埃        根本ひろ子

離されし前一輛は花野行         湯谷  良

度忘れを引きずつてゐる蜜柑かな     西畑 敦子

青空のつくしてゐたる残り菊       山田美恵子

新米と畑の末生りどんと来し       井上 淳子

初鴨の離ればなれの深眠り        林  範昭

穭田の真中光と過り来る         大谷美根子

 

今月の作品鑑賞

            山尾玉藻    

 

浦は灯を鎧ひ台風接近す       蘭定かず子

 吟行で訪れた奥琵琶の小さな漁村菅浦は、浦人が一年に数えるほどしかないと告げるほどの好天で、実にラッキーな巡り合わせとなりました。しかし、抜けるような秋天の下だからこそ、我々は自ずとこの浦の自然の厳しさを思い、淋しさや昏さが思われてなりませんでした。掲句の「浦は灯を鎧ひ」の厳しい表現は、牙をむく「台風」に屋根を寄せ合って耐え忍ぼうとする小さな一村を浮かび上がらせ、まさしく菅浦を彷彿とさせます。事実、菅浦には湖辺に波除けの石垣が続き、それはこの地で暮らす厳しさを確かにもの語る証でもありました。

七草にあらざる鶏頭の捩れ      深澤  鱶

 そのごつごつとした咲きぶりから、「鶏頭」を肝が坐っているような野太い花として捉えるのは大方の常識的見解でしょう。作者もそれを一旦は「七草にあらざる」と肯定していますが、何とそれを下五で大胆に覆すのです。しかも感覚的ではなく、王道の写生法を以ってです。鶏頭の花の萼はよく捩れていますが、作者はそこにこそ鶏頭の本意、本情があると捉えたのです。そう、実は鶏頭は人間の常識を恨み、それに密かに抗い続ける捻くれた花なのです。達者な詠みぶりと感じ入るばかりです。

豊の秋ひと駅ごとのアナウンス    小林 成子

 「ひと駅ごとのアナウンス」からひと駅ごとに流れる車掌のアナウンスがとても丁寧なことや、「豊の秋」から地方をゆっくり走る鈍行であることも想像されることでしょう。作者は田畑や木々の実りを車窓に眺めつつ、豊かな気分に浸って行ったことでしょう。

うた詠みの引きし二階に小鳥くる   今澤 淑子

 「うた詠み」とは短歌か俳句、または詩を詠む御仁を指すのでしょうが、俳人にはどうも気恥ずかしくひびく言葉です。先ほどまで二階ではそんな連衆がいかにも有り顔で寄り合っていたのでしょう。今は静けさの戻った二階が見え、木々で「小鳥」たちの鳴き声がします。してみると、したり顔のうた詠みなる者は小鳥には敬遠される存在なのかも知れません。少々アイロニカルで、この作者の特有の視点を感じさせる一句です。

秋風にころぶ双子のひとりかな    藤田 素子

 実はこの句、句会で単に直感で選んだ句、いわば胸に飛び込んで来た句です。実際、特異な景に集約された「秋風」の句ですが、改めて鑑賞して選が間違っていなかったと確信します。一般に「双子」はどこまでも相似する者同士と思われがちですが、本当は一人ずつ一個人として認められるべき二人である筈なのです。作者がそのことにはたと気づいたのは、偶然にも目撃した双子の一人が転んだ一瞬であり、それも蕭蕭と吹く秋風の中だったからなのです。秋風とはどこまでも日本人のこころの襞に沁み入る、かけがえのないエッセンスですね。そして改めて俳句とは出遭いであるという感を濃くします。

おのころのひねもす烟る穴惑     大山 文子

 日本神話では「おのころ」は淡路島とされています。「ひねもす烟る」とは、島のあちこちの刈田で稲の籾殻が焚かれている景を描いたもので、島内が秋の実りに満ち溢れる様子が伺えます。そんな豊饒の景を点じ「穴惑」の哀れさを強調した一句です。

門灯のとぼしく浮かぶ籾埃      根本ひろ子

 収穫した稲を脱穀する頃、舞い上がる籾殻で辺りがうすぼんやりとなります。そんな「籾埃」の立つ村の夕べ、灯の入った門灯もぼんやりと浮かびあがるだけなのでしょう。「とぼしく浮かぶ」の巧みな表現が一句の要となっています。

離されし前一輛は花野行       湯谷  良

 作者のいる車内に「前一輛」が切り離されるアナウンスがあったのです。それを耳にし、以前行った事のあるその地のあの美しかった花野へ思いを巡らし始めた作者です。事実のみを述べた一句ながら非常に味わい深く、作者の佳いこころの色が思われる一句です。

度忘れを引きずつてゐる蜜柑かな   西畑 敦子

 「度忘れ」を思い出すまでの過程はなかなかしんどいものです。「ひきずつてゐる」で翳りの胸中を表していますが、そんな心理に明るい「蜜柑」を添えた点に救いが見えるでしょう。恐らく穏やかな蜜柑の色と香りが自然に記憶を呼びもどしてくれた筈です。

青空のつくしてゐたる残り菊     山田美恵子

 殊勝に咲く「残り菊」の上にこの上ない「青空」が広がり、作者はまるで残菊の健気さに応えるような青さだと感じたのです。「尽くしてゐたる」が間違いなくその境地を伝えています。

新米と畑の末生りどんと来し     井上 淳子

ご兄弟からか親戚からか、毎年里の新米が届くのでしょうが、その荷に畑で生った末生り気味の野菜や果物も添えられているのでしょう。それも心遣いと嬉しく感じる作者です。

初鴨の離ればなれの深眠り      林  範昭

 身を寄せ合い耐えてきたであろう長い旅を終えた鴨たちの安堵感が、「離ればなれの深眠り」によく表出されています。今は鴨たち自身が個々の隔たりを尊重し合っている「離ればなれ」なのです。鴨へ向ける作者の眼差しに深い慈愛を感じます。

穭田の真中光と過り来る       大谷美根子

 稲が刈り取られた後の「穭」は日を浴びて意外によく育つものです。逆光の中、その穭田を誰かがこちらにやって来るのです。対象を「光と過り来る」とした絞り方で臨場感を生みました。