2018.8月

 

主宰句 

 

飯に酢を打つ手しらじら半夏生

 

萩叢をそよがせ行きし夏袴

 

カサブランカ言ひさして口結びたる

 

さくらんぼ句仇に三つ吾に三つ

 

人の死をとりしきりをる扇かな

 

三越に中二階あり花ごほり

 

寝茣蓙よりはみでし手足夢寐に入る

 

起きぬけの後の寝茣蓙の歪みやう

 

本棚に寝茣蓙立てかけ留守しをり

 

盆菓子に母の好まぬ色もあり

 

巻頭15句

            山尾玉藻推薦                       

夏野ゆくふいに怒りのごときもの       蘭定かず子

田植機の唸りつ上る雫かな          井上 淳子

探し当てしポストに日傘傾けぬ        湯谷  良

明易や岸の鵜舟のあやふやな         鱶澤  鱶

走馬灯母が湯の香をさせゐたり        山田美恵子

竹の花木漏れ日にまた見失ふ         大山 文子

まだ誰も触れざる朝杜若           小林 成子

温室の裏の風筋十字花            根本ひろ子

万緑や岸離れゆく星条旗           坂口夫佐子

中空の風みづみづし袋掛           大東由美子

子を乗せて馬にほひけり端午の日       松山 直美

掘りさしの木熊ころがるリラの冷       大内 和憲

はやばやと水打たれたるおじぎ草       髙松由利子

後架より足見えてゐる薄暑かな        松井 倫子

石楠花や山のくらさに足慣れて        山本 耀子

 

今月の作品鑑賞

          山尾玉藻

  夏野ゆくふいに怒りのごときもの   蘭定かず子

 「夏野」には雑草の匂いがむんむんと溢れ、草ぐさを踏みゆくと旺盛な草の息に呑みこまれそうな思いとなるものです。作者も夏野を行くうちに、雑草ごときに委縮する自分を急に感じ出したのではないでしょうか。その得体の知れぬ実感を「ふいに怒りのごときもの」と表して大いに納得させます。

田植機の唸りつ上る雫かな      井上 淳子

 仕事を終えた「田植機」が水田の隅から畦に上がる景を活写しました。「唸りつ上る」で水田から畦へ這い上がる折のエンジンの高鳴りを、また下五「雫かな」は田植機が水田で泥水まみれとなって働いた様子を如実に伝えています。田植機が生き物であるかのような錯覚を抱かせるほどの確かな即物描写の一句です。

探し当てしポストに日傘傾けぬ    湯谷  良

 よく知らぬ町で郵便物を投函しようとポストを捜し歩いた作者でしょう。やっと見つけたポストに「日傘傾けぬ」は無意味な行為のようだが、炎天の下で喘ぎつつ探し廻って漸くポストを見つけた安堵感から自ずと生まれた行為なのでしょう。この行為がとてもヒューマニティーで好感を覚えました。

明易や岸の鵜舟のあやふやな     鱶澤  鱶

 鵜飼見物をした翌朝早く、作者は川辺を散策しているのでしょう。昨晩は篝火を焚きあれほど絢爛と輝いていた「鵜舟」が、今は只の舟として岸辺に舫っているばかりで、昨夜の景が幻のように感じられたのでしょう。「あやふやな」はごく自然の感慨なのです。

走馬灯母が湯の香をさせゐたり    山田美恵子

 とりとめもなく廻る「走馬灯」はぼんやりとした淋しさを漂わます。そんな走馬灯を眺めていて、作者はふと湯浴みあとの母の香を思い出したのかも知れません。湯上りの香というものは、その人の生身からする香でありながら生身の香ではないのです。走馬灯の漂わす淋しさが、湯上がりの母に覚えたあの淡い切なさに繋がったのです。

竹の花木漏れ日にまた見失ふ     大山 文子

「竹の花」は百年から百二十年に一度咲き、花が咲くと一帯の竹が枯死することから、不吉なことの前兆とも言われてきました。作者はそれらしき花を見つけたのですが、地味な花だけに見失ったのでしょう。「木洩れ日にまた見失ふ」が鬱とした竹林らしさを表出しています。この竹の花、もしやこの度の大阪北部地震の前触れであったのではと思わせます。

まだ誰も触れざる朝杜若       小林 成子

 早朝、「杜若」の前に立つ作者。「まだ誰も触れざる朝」には汚れの無い朝の気を独り占めする透徹した心境が籠めらていて、美しい「杜若」を眼にしたのも自分が最初であるという思いに充足しているのでしょう。真っ新な朝の真っ新な感慨です。

温室の裏の風筋十字花        根本ひろ子

 鶴見緑地公園吟行の嘱目詠です。温室の裏に目を遣った作者は、風に揺れる「十字花」を見つけ、今観てきた温室の中の植物たちをふと思い返したのです。人の手で育てられる珍しい植物群に比して、物陰でも美しい花を咲かせるどくだみの強さや潔さに、今更ながら感じるものがあったのでしょう。

万緑や岸離れゆく星条旗       坂口夫佐子

 恐らくこの「星条旗」は遊覧船に掲げられたもので、「星条旗」そのものに大きな意味性はないと思われます。赤白のストライプと左上の青地に数多の星々が華やかに際立つ旗と、それと世界を全く別にする「万緑」の景を想像すればよいのでしょう。船の出航と共に、この二つの相反する事象がゆっくりと隔たりを見せ始めるのです。

中空の風みづみづし袋掛       大東由美子

 白い花が咲いたようで「袋掛」が施されている樹々は明るく感じますが、殊に風の日は宙に浮く白い袋がきらきら揺れて一層眩しさを増すのでしょう。そのような光景を「中空の風みづみづし」と風の表情に表出させている点に詩的センスが感じられます。

子を乗せて馬にほひけり端午の日   松山 直美

 日頃乗馬に縁のない子供たちの為に開かれた「端午の日」のイベントなでしょうか。無論、最初から馬はそれなりに匂っていたのでしょうが、作者は子供を乗せた馬が急に凛々しさを深めたように感じたのですう。その瞬時の思いを「馬にほひけり」と表現したのでしょう。

掘りさしの木熊ころがるリラの冷   大内 和憲

 作者は観光化されたアイヌ部落の土産屋の店先で、彫師が中座している景に出会ったのでしょう。散らばる木屑の中でまだ熊の形ともならぬ木の塊が転がっている景に興ざめを覚えた様子です。そんな思いと「リラの冷」とを取合わせ、北海道らしい季節感を肌で感じさせる作品です。

はやばやと水打たれたるおじぎ草   髙松由利子

 「おじぎ草」の葉に触れると忽ち閉じてしまいます。「はやばやと水打たれたる」おじぎ草も驚いたように葉を萎め、それを少々気の毒な思いで眺める作者なのでしょう。おじぎ草の花言葉は「繊細な感情」「感受性」「敏感」

後架より足見えてゐる薄暑かな    松井 倫子

 「後架」とは禅寺の厠のことで、大方は丈の短い扉が設けられています。「足見えてゐる」は致し方ない現実ですが、作者の何故か見てはいけない現実を見たという少々の悔やみが「薄暑」に繋がったのでしょう。

石楠花や山のくらさに足慣れて    山本 耀子

 山深く躑躅のような花を咲かせる「石楠花」は、山歩きに疲れた身を癒してくれる花です。しかしその反面、硬い葉がやや垂れさがっている所為か、その翳りを帯びた様子に山深さを改めて思わせる花でもあります。「山のくらさに足慣れて」とは言うものの、石楠花を眺めてはまた奥深い山を歩く足元に注意を払う作者なのでしょう。