2021.4月

 

主宰句   

 

竹林に染まり人来る上巳かな

 

天つ日の雲より出でず鶏合

 

オルガンの運び込まれしげんげん田

 

魞竹を舟に積む音春動く

 

観音へ胡葱の畝ひた伸ぶる

 

をみな子の唄に菜の花蝶と化す

 

本尊の盗まれしまま椿山

 

神水に小鳥降りくる梅若忌

 

山すみれ筧くの字となる辺り

 

蟇出でて矢印貼つてある寺廊

 

巻頭15句

             山尾玉藻推薦                

 

膝に置くときの鈴音春袋        蘭定かず子

 

重なつて肝の据らぬ寒海鼠       松山 直美

 

冬田面を引きずつてゆく近江線     湯谷  良

 

どんどの灰被つて夫に行くところ    小林 成子

 

恵方よりぽんぽん船の来たりけり    山田美恵子

 

雪に降る力忘れさする力        大東由美子

 

大楠へもぐる鳥影凍てゐたり      坂口夫佐子

 

風花やボーイソプラノ川越え来     林  範昭

 

歌がるたの上句耳打ちされしこと    西村 節子

 

ちちははの墓に不義理す小豆粥     高尾 豊子

 

頬被りの一人は女鍬振れる       松井 倫子

 

初稽古松葉杖の子囲みたる       藤田 素子

 

大寒の樋門に菜屑よどみをり      根本ひろ子

 

麻雀を声なく囲む三日かな       井上 淳子

 

臘梅の枝挿してある初荷かな      加藤 廣子

 

今月の作品鑑賞

            山尾玉藻        

膝に置く時の鈴音春袋         蘭定かず子

 季語「春袋」は女児が新年の縫初めに縫う袋のこと、縁起ものです。掲句、漸く出来上がった袋を膝に置いた瞬間、袋に付けた鈴が可愛い音を立てたのです。読み手にも小さな鈴音が何にも増して目出度い音と聞こえます。

重なつて肝の据らぬ寒海鼠       松山 直美

水に沈む海鼠が寒海鼠であるという強い意識が働いた愉しい句です。寒中の海鼠なら縮こまないでもっと威風を保てと、海鼠たちに気合を入れる作者です。

冬田面を引きずつてゆく近江線     湯谷  良

 近江線とは滋賀の米原から甲賀の貴生川を結ぶ近鉄の鉄路をさします。列車は琵琶湖から逸れて肥沃な湖東平野をゆっくりと走ります。冬枯れの平野を行く列車を「冬田面を引きずつてゆく」と喩え、大いに納得させます。

どんどの灰被つて夫に行くところ    小林 成子

夫婦揃ってどんど場に来たものの、御主人には始めから他に当てがあった様子。そそくさと立ち去るその頭や背にどんどの灰が容赦なく舞い落ちる様子をちょっと可笑しく眺めながら、作者に不満はありません。よい齢を重ね合って来た二人ならばこそ、互いの立場や目的を理解し合えるのでしょう。

恵方よりぽんぽん船の来たりけり    山田美恵子

 今年の恵方は南南東。川辺を歩いていた作者は、南の方角から近づくぽんぽん船の音に気付きました。南からする音であり、これはもう今年の恵方の南南東からする音だと納得する作者。新年の気分が何ほどでもない音を目出度く捉えます。

雪に降る力忘れさする力        大東由美子

言われてみれば、大空が我々に齎すものの中で雪ほど軽いものはなく、雪自身の強い意思で降っているのかも知れません。その上、舞う雪は鬱なる思いを一瞬にして消し去ってくれます。破調であるのが逆に説得力を高めているようです。

大楠へもぐる鳥影凍てゐたり      坂口夫佐子

常緑樹の楠には寒中にもめげない強い生命力のイメージがあります。それだけに、楠の張りある葉の中へもぐりこむ小さな鳥の姿に哀れを覚えた作者でしょう。「凍て」に実感が籠められています。

風花やボーイソプラノ川越え来     林  範昭

川を隔てて聞こえて来るボーイソプラノは、清く澄んだ歌声であったに違いありません。しかもそれが風花に乗ってひびいてくるのですから、作者でなくともこころ奪われます。

歌がるたの上句耳打ちされしこと    西村 節子

 作者は歌がるたの読み手でしょうか。ある歌を読みあげ、その上句にはたと思い当たることがあったのです。その後の鑑賞は野暮というものです。「耳打ちされしこと」の艶なるひびきがこころ憎い一句です。

ちちははの墓に不義理す小豆粥     高尾 豊子

 コロナ禍の時世では外出もままならず、気になりながらも父母の墓参が叶わぬ日々が続きます。正月十五日、その事が一層悔やまれたのは、小豆粥の滋味ある温かさの所以でしょう。正月が明けても普通の生活が許されない毎日が待っています。

頬被りの一人は女鍬振れる       松井 倫子

今、世界から日本人のジェンダー意識が大きく問われています。しかし大方の日本人はそれを頭で理解していても、それを完全に自分のものとして消化し切れていないのが現実のようです。観点は違っても、掲句もこれまでに擦りこまれたきた無意識に、はっと気づいた自分を詠んでいるのです。

 初稽古松葉杖の子囲みたる       藤田 素子

 剣道か柔道の道場での初稽古の寸景でしょう。正月休みの間に足を骨折でもした子が松葉杖を突いて現れ、驚いた仲間達がその子を取り囲み事情を尋ねているのです。「初稽古」風景にも色々あるものです。

大寒の樋門に菜屑よどみをり      根本ひろ子

 樋門とは雨水や水田の水が水路となり合流する所で水量を調節する暗渠のことです。その樋門の手前で冬菜の屑が閊え滞っている景ですが、澱みに浮く菜っ葉の緑がいかにも寒々しい思いにさせたのでしょう。「大寒」が効いています。

麻雀を声なく囲む三日かな       井上 淳子

麻雀に詳しくはありませんが、牌をかき混ぜる音や勝負がついた時にあげる声以外、麻雀はおおよそ静かに進むゲームです。掲句、恐らく麻雀が出来ない作者は、正月三日らしくない静けさにもの物足りなさと、取り残されているような寂しさを覚えていたのではないでしょうか。

臘梅の枝挿してある初荷かな      加藤 廣子

初荷の幟が眩しくはためき、荷に挿してある臘梅の芳香が漂うのは、懐かしくゆかしい景です。忘れかけていた日本の風景と日本人本来の意気地が描かれ、好印象の一句です。