2021.1月

 

主宰句 

 

天神の雨に遭ひきしぬくめ鮓

 

灯あかりの余る上座の隙間風

 

湯豆腐のひとつ身ぶるひし始めし

 

一陽のうべなうべなと張子虎

 

猪鍋ツアー口紅をしつかりと

 

銃身を抱へゆく影冬の水

 

もの識りが討入りの日を忘れゐし

 

足跡の猪か鹿かと梅探る

 

雪暗や箒に立つといふ辛抱

 

寒卵濁世と言うて他知らず

 

巻頭15句

             山尾玉藻推薦                      

 

昏れ初めし汀にぢめる鉦叩        山田美恵子

 

忌ごころに通り抜けたる菊畑       湯谷  良

 

湯豆腐ややうやう諭し帰したる      蘭定かず子

 

満月と火星ちかぢか兜太の書       小野 勝弘

 

球根の芽に降りきたる紅葉黄葉      坂口夫佐子

 

冬支度の手始めジャンボ宝くじ      林  範昭

 

ちちははの知らぬ我が家小鳥来る     小林 成子

 

退りても寄りても鵙の贄なりし      西村 節子

 

いきいきとまごまごとせる冬菜の芽    尾崎 晶子

 

声と声まづぶつけ合ふ運動会       藤田 素子

 

足早に過ぎゆく人に水澄めり       松井 倫子

 

はればれと山の近づくばつたんこ     根本ひろ子

 

木犀の香に囚はるる無人の家       永井 喬太

 

鰓呼吸して木犀の香を吐けり       五島 節子

 

今更に隣家の親し萩を刈る        上林ふらと

 

今月の作品鑑賞

            山尾玉藻             

昏れ初めし汀にぢめる鉦叩      山田美恵子

 作者の佇む「汀」の形と水音が、夕ぐれと共に徐々にぼうっと薄らいできたのだが、その様子を「にじめる」と捉えた点にナイーブな感性が働いている。言うまでもなく、辺りで静かに鳴き始めた「鉦叩」の音色がその感性を呼び覚ましたのであり、「鉦叩」でなければならぬ一句である。

忌ごころに通り抜けたる菊畑     湯谷  良

 喪中であったのか、それとも誰かの忌日であったのか、忌みつつしむ思いで「菊畑」にさしかかった作者。静やかな菊の香が作者の胸の翳りを一層濃いものとしたことだろう。菊のイメージはどうかすると葬りに繋がるものだが、この場合は季語がべた即きの良さを発揮していると言えるだろう。

湯豆腐ややうやう諭し帰したる    蘭定かず子

昼間、作者のところへ誰かが愚痴をこぼしに来たのだろう。その人物の説得に苦労した様子が「やうやう」の一語に滲み出ており、夕餉の温かな「湯豆腐」を前にしてもまだ気がかりな作者のようだ。豆腐の揺らぎと共に作者のこころも揺らぐ。恒星圏作品<語り部の神と化すこゑ火恋し>、神と成り切った「語り部」の声に何かしら違和感を覚えた心理が「火恋し」に巧みに表出されている。

満月と火星ちかぢか兜太の書     小野 勝弘

 本年十一月六日頃、地球と「火星」の大接近が話題になった。実際に空を仰ぐと火星は常よりも随分大きく輝いていて、そのエネルギーを身をもって感じることができた。掲句、その宇宙的パワーに「兜太の書」を対峙させ、見事な均衡が保たれている。金子兜太の書跡は髄部迫力があるが、じっくり眺めると人のこころを揺るがす心力であることに気づく。

球根の芽に降りきたる紅葉黄葉    坂口夫佐子

晩秋の季語に「球根秋植う」があり、チューリップや水仙の球根は比較的早く芽を出す。その芽に辺りで赤や黄に染まった木の葉が次々と散ってくるのだろう。球根の芽と紅葉、黄葉は自然の習いに逆らうことなく出会い、葉は朽ち葉となって地に還り、芽はその地の恵みで開花する。この一句、季節の狭間の何気ない景を切り取ったちっぽけな句のようだが、実は自然界の永劫のサイクルを指し示す普遍を捉えた大きな一句である。

冬支度の手始めジャンボ宝くじ    林  範昭

私など「冬支度」と「ジャンボ宝くじ」には関わりないように思うが、最近は多くの人にとって大いに関りがあるのだろう。年末「ジャンボ宝くじ」が発売されると大勢の人がそれを買い求め、その人たちはそれから初めて暮を実感するようだ。真面目な作者にとってもささやかな楽しみなのだろう。そこが大変微笑ましい。同時発表の<スポーツの日の競輪を覗きけり>、これまで「競輪」には賭け事のイメージがあったのだが、「オリンピック種目でもある歴としたスポーツなのだから」と作者の真剣な注釈が聞こえてくるようで、これまたくすっと可笑しい。

ちちははの知らぬ我が家小鳥来る   小林 成子

作者が新居に移られてかなりの年月が経つが、人が「我が家」と実感できるにはそれなりの時間が必要であろう。庭に小鳥が来た日、「ちちはは」が存命ならこの家を喜んでくれたに違いないとしみじみ感慨にふける作者。

退りても寄りても鵙の贄なりし    西村 節子

 話には聞いていた「鵙の贄」を初めて見た作者なのだろう。近づいて詳しく観察し、少し離れてその形を確認する様子に、作者の好奇心の大きさが想像されてとても愉しい。何よりも「鵙の贄なりし」の断定が明快で、十七文字の上から下までずぼっと芯のある印象的な一元句である。

いきいきとまごまごとせる冬菜の芽  尾崎 晶子

 「冬菜の芽」が吹き出た直後の様子を「いきいきと」と述べるのはごく常套と言って良いだろうが、それが「まごまご」ともしていると見立てた点に独自性がある。吹き出た後、さあ次にどう伸びようかとまちまちを向く芽たちを喩えた「まごまご」であり、ここに大きな発見がある。

声と声まづぶつけ合ふ運動会     藤田 素子

 「運動会」開始が高らかにアナウンスされると、忽ち「紅組がんばれ」「白組がんばれ」のエール合戦となったのだろう。「まづぶつけ合ふ」に臨場感があり、それからの熱戦の様子が思われる。

足早に過ぎゆく人に水澄めり     松井 倫子

水辺を急ぐ人に焦点を絞りつつ、作者は清澄な水にこころ惹かれている。だが足早の人には「水澄めり」の感慨などお構いなしなのだろう。「足早に過ぎゆく人に」の「に」にそれが推測される。

はればれと山の近づくばつたんこ   根本ひろ子

 秋晴の下、「ばつたんこ」の音が稲田にひびき渡り、山容が常にもまして際立っているのだろう。そんな景を「はればれと山の近づく」と擬人法で言い切り、豊作の喜びを朗々と伝える。

木犀の香に囚はるる無人の家     永井 喬太

鰓呼吸して木犀の香を吐けり     五島 節子

 「木犀」の二句を並べ鑑賞してみたい。

空気の澄む秋の花の中で最も香り高いのはやはり「「木犀」であろうが、その強い芳香は人間の気分次第で良くも悪くも感じるものである。一句目、人が住む気配のない家の木犀の香が余りにも強く、まるで空き家がその香で身動きできぬと感じた作者。このインパクトある感応から、常日頃作者がこの空き家を懸念していたことが窺い知れるだろう。二句目、この作者も胸中に何かしら翳りを抱いていたからこそ、持ち合わせている筈のない「鰓」を意識しているのである。こう言われてみて、我々人間は水生動物の「鰓」に負や陰のイメージを覚えていることを改めて思った。

今更に隣家の親し萩を刈る     上林ふらと

 本来「隣家」と親しい付き合いをしている作者である。今、隣家との間でよく茂っていた「萩」を刈り取りつつ、その明るさで隣家との距離が一層狭まったような嬉しさを覚えているのだろう。そんな素直な思いが「今更に」の的確な一語により伝わってくる。