2020.9月

 

主宰句

 

花苔に屈みてこころづきしこと

 

生飯台のものかがやかせ土用雨

 

ちちははの世へ風抜くる籠枕

 

四つ這ひの稚のけ反りぬ雲の峰

 

峰雲へ展べし四曲銀屏風

 

夜の秋の蟇の出でゐし井筒の辺

 

ほつそりと舟揚げてあり盆三日

 

扇風機のほうがよろしと生身魂

 

きちきちは跳ね合ひ馬は厩にゐ

 

メモ書きを押さふる鉢の走り藷

 

 巻頭15句

             山尾玉藻推薦                   

 

さくらんぼのすつぽんぽんを抓みけり    林  範昭

 

棹立ちの馬の掻きたる雲の峰        山田美恵子

 

青梅雨の裾拡げゆくのぞみ号        坂口夫佐子

 

琅玕の風に明らむ更衣           松井 倫子

 

朝の間のひたに跼める草むしり       湯谷  良

 

春日野の神の袖かげ鹿の子ゐる       蘭定かず子

 

赤げらのつむり似て来し巣立どき      大内 鉄幹

 

茹であげし麦藁蛸のすわりやう       小林 成子

 

ささめごとこぼしてゆけり青葉闇      西村 節子

 

草ぐさの総揺れに蟇横つ跳び        今澤 淑子

 

明易の二度寝をしたる疲れなり       石原 暁子

 

蛇苺の辺り雀のにぎにぎし         河﨑 尚子

 

紫陽花のこの世のものでありし碧      藤田 素子

 

屋敷神へ重機踏み入る日の盛        根本ひろ子

 

行き先は言はず問はれず夕ほたる      高尾 豊子

 

今月の作品鑑賞

                  山尾玉藻            

さくらんぼのすつぽんぽんを抓みけり   林  範昭

 「さくらんぼ」の愛らしさと艶やかさを表現して、「すつぽんぽん」とは見事な技ありの一句。「すつぽんぽん」には心地よいインパクトがあり、さくらんぼを的確に語るにはこの表現以外にないとさえ思わせる力がある。その上、日頃とても真面目で少し硬いイメージの作者にして、よくぞこうも大胆で柔軟な表現が生まれたものだと、またまた感心する。

棹立ちの馬の掻きたる雲の峰       山田美恵子   

「棹立ちの馬」とは、突然何かに驚いて前足を高く上げ後ろ足で突っ立った馬の様子である。思いがけない出来事に作者自身も驚いたに違いないが、俳人にとってそれは啐啄の一瞬、またとない好機に巡り合ったことになる。偶然のしかも一瞬の出会いより得た句ほど強いものはない。

赤げらのつむり似て来し巣立どき     大内 鉄幹

 巣立ちを迎える頃となり、「赤げら」の巣に見え隠れする雛の「つむり」の形や毛並みが整ってきて、盛んに動いているのが見えるのだろう。「つむり似て来し」から、それまでは和毛でぼうぼうであった頭が想像されて微笑ましい。成鳥の雄の頭の赤い斑はベレー帽を被っているようで愉しいが、何時頃からそれが顕著となってくるのだろうか。

茹であげし麦藁蛸のすわりやう      小林 成子

 勿論、まるまる一匹の「麦藁蛸」が茹で上げられた景。生きている蛸の姿はかなり不気味だが、茹で上がると形相は一変する。真っ赤となり脚を八方に曲げてころんと丸く、ちょっとキュートでさえある。作者もそんな風に変化した蛸に興を覚えているのが、下五「すわりやう」に窺い知れる。

草ぐさの総揺れに蟇横つ跳び       今澤 淑子

 風が不意に出てきたのか、急に辺りの草が大きく揺れ始めた。それまで草の傍にでんと構えて不動であった「蟇」が草ぐさの動きに驚いて跳ねたのか、それとも草ぐさと蟇の偶然の出来事だったのか。「横つ跳び」の斜に構えた捉え方はこの作者固有の感性であり、ここはひとつ蟇の横っ飛びなる不意の動きを作者と共に楽しんでみよう。

蛇苺の辺り雀のにぎにぎし        河﨑 尚子

 「蛇苺」と「雀」たちとに直接の関りはなく、全くの偶然から生じた景だろう。しかしそれをこころに留めさせたのは、無論蛇苺のあの紅いろであるが、同時に「蛇」の一語が作者の頭を過ったからに違いない。

紫陽花のこの世のものでありし碧     藤田 素子

 「紫陽花」の真の美しさや魅力は本来の色である瑞々しい「碧」いろにあると思う。作者も同じ考えなのだろう。だからこそ敢えて「この世のものでありし碧」と感嘆を隠せなかったのだ。この場合の「この世」に衒いや抹香臭さが感じられないのは、恐らく作者が紫陽花より不意に賜った一語であったからだろう。

  行き先は言はず問はれず夕ほたる     高尾 豊子

 ひと世代昔なら主婦が夜に外出するなど許されなかったが、今やこの作者同様に気兼ねなく(少しは気兼ねしている)夜遊びもする。夜遊びと言っても掲句のように蛍狩りほどのものでいたって他愛ない。しかし「行き先は言はず問はれず」に寂しさが漂うのは、家人に関心を持たれないという危うさを何とはなしに感じているからであろう。

冷房の強し弱しと耳打ちす        上原 悦子

 句会でよく経験することだが、「冷房」が強いの弱いのと簡単に苦情を言われる方がある。そんな時、一枚脱ぎ着出来るものを持って来られたら良いものを、と私は思う。掲句も同様の景なのだろう。「耳打ち」されるのは幹事さんだろうが、その度に他の人達の同意を得なければならず、立ったり座ったりで、幹事さんは気の毒である。

どちらかと言へば好きなる草いきれ    井上 淳子

 草叢からするむっとするような熱気は草ぐさの生命力を象徴するものだが、大方の人はその勢いに一瞬ひるみ萎えがちとなる。しかしこれは非常に常識的な捉え方のようだ。現に作者はひるむどころか快く感じている。純な思いで草ぐさのパワーに反応し、気持ちが引締められるのだろう。「どちらかと言へば」の控えめな表現にもこの作者の人柄がにじみ出ていると感じる。

カレンダーの埋まらぬ疲れほととぎす   石原 暁子

先行きの見えぬコロナの世に覚える鬱を、「カレンダーの埋まらぬ疲れ」と巧みに表現している。この具体的であるような抽象的であるようなこの措辞に大いに納得する。辺りをつんざくような「ほととぎす」の声が、作者の晴れない気分を一層重いものにしたことだろう。九日抄に推した<明易の二度寝をしたる疲れなり>の下五「疲れなり」の意外なかわし方にもなるほどと同意する。

  抱へ来る天草に鍋たぎりをり      するきいつこ

 「天草」を煮出してそのエキスを抽出して固めたものが心太であり、掲句はその煮出しの景。天草は幾度も水洗いと天日干しをされて非常に軽くなっているので、「抱へ来る」とはどれほどの嵩なのかと想像が膨らむ。それを待ち受ける大鍋には湯が踊っており、臨場感たっぷりである。

  働いてゐるとは知らず蟻の列      五島 節子

「蟻」が列を成して餌となるものを巣に運ぶのは、子孫繁栄の為の本能に従っているだけで、それを「働き蟻」と名付けたこと自体が人間の勝手な主観である。そんな思い込みが「働いてゐるとは知らず」という新たな思い込みを生んだ愉快な一句である。